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福田翁随想録(11)

 人生邂逅のご縁

 人生途上にあって、人と人との邂逅から得がたいご縁に恵まれるというのは不思議というよりほかはない。
「時所居」という絶妙なタイミング、そこでなければならないかけ替えのない場所、運命の糸で結ばれた出会い、この三拍子がたまたま揃って達成される人間関係である。
 岩手県盛岡市の名刹、瑞鳩峰山(ずいきゅうほうざん)報恩禅寺の住職だった関大徹老師と私との場合が正にそうだった。
 ある年の冬の朝、雪の街角に佇んでいたら托鉢で喜捨(きしゃ)を仰ぐ墨染の一団が黙々と通り過ぎて行った。当時私は放送の仕事をしていて、本社のある故郷の盛岡に久しぶりに戻っていた。初めて見る光景だった。
 京都などではよく見掛ける托鉢行が盛岡の報恩寺でも行われていることを知って、平素お寺参りとは無縁だった私だが気に懸かるようになった。
 その托鉢行の導師が、道元禅師ゆかりの地、福井県吉峰寺から転じてこられた三十七世関大徹師と知ったのはそれからしばらく経ってからであった。  
 檀家の話によると、昭和五十一年初冬待望の専任住職を出迎えるにあたって駅ホームのグリーン車の停止する前で待ち受けていると、行脚姿の老師が普通車の人混みから現れたので皆が大慌てしたという。
 その頃の私は、六十歳になりなんとなくサラリーマン重役の限界を覚え、この辺りが引退の時期ではあるまいかと思い悩んでいた。ちょうどその頃、ツテがあって、カナダのバンクーバーで一人暮らしするというプランが持ち上がり、実行の見通しはついていた。
 人生における大きな転機と岐路に立った時、誰しも悶々となるのは当然であろう。
 眠れない夜が続いていた時に電撃的に頭に閃いたのが、かつての托鉢行の導師・関大徹老師であった。
 私は夜の明けるのを待って報恩寺の門をたたいた。お勤めを終えた老師は私室に招じ入れて悩む心境と煩悶を静かにお聞きになってくださった。吐露し終えた私はなぜか身体から力が抜けた半面砂地に水が吸い込まれる満足感を覚えた。
 よく聞き上手というが、あの時の印象は、巌のような厚く重い壁でしっかり支えてくれて全幅の信頼感を与える温かさがあった。痩躯でありながら穏やかな眼差しは悩める者を強く抱く力を私に感じさせてくれた。
「守ってあげますよ。行ってらっしゃい」
 と励ましてくださるお言葉には、千鈞(せんきん)の重みがあり、やるぞという勇気が充実してくるのを覚えた。

 私はこれからの高齢者の生き方を自分に課してカナダで一年有半暮らしてきたが、よくもたった一人で未知の地であれだけの体験ができたものだ。彼の地の人たちからも驚かれる連続の積み重ねだった。
 カナダに行って間もなく肺炎に罹った。高齢者には命取りと恐れられる難病だが、抗生物質の投与のおかげで劇的に一ヵ月の苦痛から脱出できた。
 自動車運転免許の取得、六千キロの横断旅行、英系の男性とのひと夏孤島での暮らしは忘れ難いものだ。
 郷党の先輩・新渡戸稲造博士永眠のビクトリア市のジュビリー病院に、三十号大の油絵『看護婦戴帽式』を描いて寄贈もした。
 そして昭和五十四年暮れに帰国した。
 帰国後間もなく、思いもしない執筆の依頼を受け、その翌年に書き上げたのが『六十路からの旅立ち』(現代書林)である。
 原稿用紙に向かいながら「よくも暮らし了(おお)せて帰れたものだ」とわが身を愛おしみながら、五体満足で帰れたのも関老師の励ましと御守護があったればこそだと心底思った。
 人と人との交わりに長さは必ずしも要しないだろう。サラリーマン社会では何十年一緒に仕事をしても打ち解けない人がいる。かと思えば、会った瞬間の間一髪でその人柄に吸い込まれる時だってある。 
 老師とはその後東京と盛岡と離れてしまって頻繁にお会いできなくなったが、帰省するごとにお会いし、その都度さわやかな風を受けた。
 老師は私の帰国のお祝いだと仰って愛用されていたメノウの数珠を下すった。
 その後四国八十八ヶ所のお遍路や秩父三十四観音の巡礼をしたが、もちろん数珠は肌身離さなかった。
 老師は八十二歳で亡くなられる前、神経痛に侵されたが「死ねば治るよ」と辛いお顔はついぞお見せにならなかった。

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