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福田翁随想録(22)

 捨てきれぬ生への執着 

 結婚五十年という節目の「金婚式」にこれといった改まったお祝いをすることもなく、傘寿と喜寿となった。幾山河を超えてきた二人にはそれなりの忘れ難い出来事がそれぞれにあるものである。
 女房孝行を急に思い立ち、家人をいきなり電話で呼び出し、なんの計画もなく神奈川県の三浦半島に向かった。
 三浦岬の海辺に出てみると、風はなく青空である。夏の初めで午後とはいえ陽も高かったので、傍らの小型の磯船の船頭さんに頼んで城ヶ島一周としゃれこんだ。
 観光シーズンにはまだ早いのか浜には人影は少なく、船頭さんにしてみるといいカモだっただろう。船尾に小さな発動機がついていたが、出だしは手漕ぎの櫓(ろ)だった。
 島の東端に出ると案外波は高かったが、今更帰る気にもなれない。この程度なら大丈夫だろうと思っていたところが、島の突端に出ると様相は一変して茫洋たる太平洋上に放り出されたような感じになった。小舟は絶え間なく押し寄せる大波に翻弄され始めた。波頭に躍り上がると発動機のスクリューが空転するではないか。 
 荒れた海の波をウサギが飛ぶというが、海上を見回すと太陽に反射して数えきれないほどのウサギが跳んでいる。
 小舟は波底に沈めば波浪の壁に囲まれ、せり上がれば遥か油壷の家並みが見え隠れしていた。さすがに船頭さんも緊張し、泳げない家人は失神せんばかりの顔面蒼白である。「なぜ引返す決断をしなかったのか」とわが身を責めてもどうなるわけでもなく、この時ほど軽挙妄動を後悔したことはない。
 私は足元にあった一枚の舟板に目が留まった。
「これを抱け。これさえ抱いていれば溺れることはない」
 と励まし、大声で「我は海の子白波の……」と歌い出した。
 時として家人は
「もしあの時あなたがあの一枚の板を自分だけ抱いていたとしたら、私は一生あなたに不信感を持ち続けていたでしょう」
 と、当時を回想するが、それを聞くたびに執念の恐ろしさを覚えずにおれない。しかしこれはぎりぎり生死に関することだからもっともな感情だともいえるだろうが。
 わがまま坊主ぶりは傘寿になっても大目に見られ、老人戦線の塹壕に戦友としてひそんでこれたのも、こんな一件の積み重ねが相互信頼の絆になってくれているからかもしれない。

 そもそもわれわれは正義だとか自由だとか美しい言葉で人間のよりよき部分を示せるのか(←?)、と岩永達郎氏が自身に厳しく問い掛けているのを興深く読んだ(「自分と出会う」朝日新聞/1998・2・24)。
 難破船に乗り合わせ、舟板一枚を手に入れることによってのみ生き残ることができるという状況下での問題を古代ギリシャの哲学者・カルネアデスが突きつけている(カルネアデスの思考実験の問題)のに、岩永氏は目からウロコが落ちる思いをしている。
 生死の分かれ目で人を突き飛ばしてでも生き残りたいという衝動を抑えられるかと問われて「できる」と言い切れる人は恐らくいないだろう。
 岩永氏は少しでも自分がいい気になりかけている刹那にハッと我に返らせてくれる寓話で、カルネアデスに感謝したいと述べている。

 私の「油壷事件」は船頭さんのおかげで無事浜に戻ってこられたわけで、遭難したわけでもないので、カルネアデスの提起している問題とはほど遠く、にわかに比べられないが、ここで思い出されるのが孟子の「四端説(したんせつ)」である。
 人が生まれながらに備えている「惻隠(そくいん)の心・同情」、「羞悪(しゅうお)の心・羞恥」、「辞譲(じじょう)の心・謙譲」、「是非(ぜひ)の心・分別」が、「仁」「義」「礼」「智」の核であり心の現れだとする、いわゆる孟子の「性善説」の根幹をなす考え方である。
 それはそうだと認めても、実際の平素の暮らしの次元で、孟子自身が難破船上にあって残された一枚の舟板を人に与えられるかどうかというのは全く別の話である。

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