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小学生の頃の”あの力”が欲しい

今日は、趣味について考えたいと思います。

私には、趣味はありません。趣味って、寝食忘れるぐらい熱中できることですよね? ーーーーはい、それならないです。

今のところ、私の最初で最後の趣味は、小学校時代の読書です。
文字通り、寝食忘れるまで本を読みふけっていました。
毎週土日は図書館で10冊本を借り、登下校も本を読みながら帰る。
家に帰っても、靴を履いたまま玄関で読み続け、日が暮れて文字が見えなくなると、やっと靴を脱いでお風呂に入る。
そんな生活をしていました。もはや、活字中毒でした。

そんな時代が懐かしい。本当に懐かしい。今や私が熱中できるものは、はっきり言って皆無です。全くない。

もちろん、その瞬間だけ集中することはありますよ。ギターやDIY、アクセサリー作りに陶芸。でも、その時だけです。次もまたしたいとは自然に思わないのです。次に取り組むときは、あらゆるものが自分の中では少しだけ義務感を帯びているのです。

だから、私は遊ぶように趣味に取り組む人を羨ましく思います。
「ただそれが好きだから、それに触れている時間が楽しいから、自然としてしまう。」
そんな対象物があることを羨ましく思います。

私がそう言ったものと出会えない原因はなんとなくわかっています。
目的とその先の近い未来を考えてしまうからです。
例えば、将棋好きな人から将棋を習ったとしましょう。
その人は、「将棋はまるで人生のようだ。実によく考えられたゲームである」と言いました。

私はそこから考えてしまうのです。
「なるほど、AIに将棋をさせると強いが性格は出ない。
しかし、人間の将棋ではどこにどんなタイミングでどの駒を動かすかという思考が性格になり、それが将棋を指すことの面白さになるのだ。
だから、人間はAIに負けても将棋を指し続けるし、将棋をすること自体に価値があるのだ。大変興味深い。
ではこういった将棋の要素を生かして何か別のことに役立てることはできないだろうか。例えば○○でーーーー。」

そこでハっと気づきます。
「私は将棋を純粋に楽しむことができなかった。将棋の一要素だけを捉え、別の場所に目的をそえようとしていた・・・」

見方を変えれば、思考を発展させることができていると言えるのかもしれません。
でも、私には虚しさが募ります。なぜなら、思考が移った次の瞬間には、将棋自体にはなんの意識もないからです。将棋の一要素にしか関心がないのです。
なんて失礼なことなのでしょうか。

このように私は、小学生の頃は持っていた「それ自体を楽しむ能力」が欠けていて、それにより趣味がなく、少し、かなり、だいぶと、日々の楽しさが小さいことに悩んでいます。

この能力の高め方を知っている人がいたら、ぜひ教えて欲しいです。

ありがとうございます、モチベーションになります! 書籍代に使わせていただきます。 この記事を読んでくださったあなたが、誰かのために素敵な記事を書くことを願っています。