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プレ皇室研究: 金印をもらったのは誰なのか? (追記あり)

さて、以前に原田大六先生の研究をもとにして、私なりの研究をした結果は、
伊都国は、皇室の祖先の国。平原遺跡の被葬者は、玉依姫、つまり神武天皇の母親。伊都国の女王。
(その後、どうも夫のウガヤフキアエズ王は、早めに死んだので、玉依姫が未亡人としてがんばっていたようだ。)

九州北部の、糸島周辺は「三種の神器」の宝庫であり、ちゃんと出土している。

さて、では、隣の奴国の王も、どうやら、皇室の先祖ぽいいのだ。なぜなら、奴国の王様の墓からも、三種の神器が出土している。
ひえー。
これは現在は春日市というところらしい。


さて、中国の皇帝から金印をもらった例はあるが、これである。

これ、
「奴国の王にあげた」説と
「委奴で、実は”いと”と読むので、伊都国じゃないか」説が
あるのだそうだ。
なんていうか、伊都国と奴国は、兄弟国家みたいなものではないか。
たとえば、ヨーロッパや中東イスラムにいくと、兄と弟で王様同志っていう例がときどきあるのだ。
王族が親せき同志なのだ。
たとえば、スペインハプスブルク帝国とオーストリアハプスブルク帝国とか、そんなかんじだ。手一杯なので、兄弟で別々に治めていて、官僚や王女、王子などは結婚させたり、留学させたりして、交流があるのだ。

さて、中国側はどう書いてあるかというとこんなだ。
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
「後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。」

年代が問題なのだが、つまり西暦にしたら、57年だ。1世紀の半ばってことだ。

さっきの王墓がみつかった奴国の王様よりは前の王様なんだそうだ。

さて、系図をもう一度見てみよう。
前に作ったので、こんなかんじー。


ウガヤフキアエズは、もう平原遺跡が奥さんの遺跡なので、もう伊都国の王様で確定だろう。墓はみつかってない。もしかしたら、平原遺跡であまり副葬品などが出ない地味な墓で、発掘したけど、見過ごされているのかも??? ああ、かわいそう。姉さん女房っぽいからなあ・・・。

さて、弥生時代の時期だが、この通りだ。
「(早期は紀元前5世紀中頃から)
前期は紀元前3世紀頃から、
中期は紀元前1世紀頃から、
後期は1世紀中頃から3世紀の中頃まで続いたと考えられている。」
そして、平原遺跡は、後期らしいので1世紀半ばだ。
(3世紀まで引っ張ると、あとの神武東征や時代がわかっている天皇との間がつめつめになってまずいので、古いほうを取る。)

おや、上記の57年と近い。

そして、三雲南小路遺跡は、王と王妃らしい墓があった。
もちろん、三種の神器もあった。ちなみに、こちらのほうが古いらしい。
仮に1世代前とかなら、30年ほど前なので、紀元10-20年くらいかもしれない。


ちなみに、卑弥呼は248年に亡くなっているらしいので、3世紀で、もうちょっと後である。
プレ皇室のほうが、古いのだ。

さらに古いのが、こちらだ。
はっきりとは発掘されていないのであるが、銅剣など銅製のものが多いので、こちらのほうが普通は古いだろう。
鉄製のほうが技術がいるのだ。

出土品はこちらだ。
銅剣 2
銅矛 4
銅戈 1
銅鏡(前漢鏡) 32面以上(方格四星草葉文鏡 1、重圏四星葉文鏡 2、蟠螭(ばんち)鏡 1、星雲文鏡 5面以上、重圏文銘帯鏡 5面以上、内行花文銘帯鏡 13面以上、不明 5面)
ガラス璧(瑠璃壁)2個片以上
ガラス勾玉
ガラス管玉」

ちなみに、前漢は 紀元前206年 - 8年 となるので、紀元0年近くから、紀元前3世紀までだ。
やはり、銅製ということで、こっちが一番古い。

では、これらの墓を時代順に並べてみると。

須玖岡本遺跡 → 銅製の三種の神器。男王。奴国の国王らしい。紀元前。最大紀元前206年までさかのぼれる。

三雲南小路遺跡 → 伊都国の王と王妃。銅製の三種の神器が発掘されている。前漢の鏡が出土。下のものは、弥生中期らしい。つまり紀元前1世紀ということらしい。30-50年ほど、須玖岡本遺跡より後のようだ。方形周溝墓で、甕棺を2器出土。これが王と王妃想定されている。金銅製四葉飾金具 8個以上も出土している。

この鏡のデザインで、もう少し時代区分を判別できるようだ。

Wikipediaより


平原遺跡 → 弥生時代後期。玉依姫の墓と比定。1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺の埋納。甕棺よりは新しい形式。三種の神器もでており、銅鏡である。内行花文鏡が八咫鏡と同デザインといわれている。


というわけで、新旧3セットの三種の神器とお墓が確定したわけである。

須玖岡本遺跡 → 奴国男王。紀元前から紀元前206年までの間のどこか。

三雲南小路遺跡 → 伊都国の王と王妃。紀元前1世紀頃。

平原遺跡 → 伊都国女王。玉依姫。神武天皇の母。紀元後1世紀くらい。

だいたい、100年くらいずつ時代が違う。
昔の人は、寿命30-40年の世界なので、もしかしたら、親子ジュニア2体制だったのかもしれない。

さて、金印をもらったのは、中国の資料で57年とはっきりしているので、平原遺跡と同年代くらいの王様である。
ウガヤフキアエズは、どうもあまり長生きしていないのと、伊都国と奴国を同時に統治している感じは何も材料がないので、奴国の王様は別だろう。
そうすると、ウガヤフキアエズの従兄弟とか、年の近い叔父甥は考えられる。
皇室の系図を見直してみよう。


Wikipediaより引用

可能性としては、ウガヤフキアエズの父の兄弟か、その息子である。
海幸彦が、山幸彦の兄だから、候補者だ。
もう1人、兄がいる。この2人が怪しい。

海幸彦は、横暴な人物に描かれているが、ちょっとくらい強健な性格でないと、古代で王は務まらない。
兄弟でなんだか、仲が悪そうであるので、同じ国を共同統治ではなくて、隣の国を別々に治めたのかもしれない。

次に一応、親族なので女系の親せきの男性も候補者にしておく。


うーむ、一応候補者としてはこんなかんじなので、中国にいちいち使者を送って、なんか金印までもらおうっていう、ずーずーしいのは、なんか海幸彦って気がする。海幸彦っていうくらいだから、漁師、船の技術はハイレベルだったのかもしれない。

三雲南小路遺跡の王と王妃は、それでいうともうちょっと昔なので、これこそが、コノハナサクヤヒメとニニギノミコトってことになるかもしれない。
そういえば、井手先生がそんなことをいっていた。


ということは、須玖岡本遺跡の男王は、アメノオシホミミかもしれない。
つまり、奴国は高天原だったということになる。
これも、井手先生が「奴国から伊都国へ」といっていて、「奴国が高天原の一部だった」ということもいっておられる。原田先生の話と同じだ(まあ、弟子だし)。


そして、次に遡ると天照大神がどこにいて、どれが墓なのかが次のテーマになるだろう。
夫は、スサノオノミコトらしいが、他に奥さんを持っていて、高天原から追い出されて出雲に移住している。山陽地方か山陰地方あたりで、紀元前2世紀とかの墓を探せばよい。
天照は、九州近くにいたのか、そうでないかはよくわからない。
四国に関係あるところはあるが、共産主義者がインチキをして地名を作っているので、信用できない。
スサノオと天照の墓がみつかるとしたら、甕棺だろう。
平原遺跡みたいに、かっこいいお墓ではないかもしれない。平地に埋めてあるだけになるかもしれないし・・・。いや、下手したら、甕棺でさえないかもしれない。


さて、神武天皇の東征は、平原遺跡ができるちょっと前だろうから、紀元1世紀なのだ。→ 平原遺跡の墓ができた後かもしれないです。なのでどちらかわからないに修正します。

ところで、よくいう欠史八代は、数合わせで長く見せるためのごまかしだといわれている。
なんせ、紀元前660年だったのが、紀元1世紀 たとえば40-50年くらいになるので、邪馬台国よりは200年近く古いけども、紀元前ではなかったのだから。


確実に存在したのは崇神天皇からだそうで、3世紀後半から4世紀前半なのだそうだ。古墳時代だ。

西暦372年が七支刀の銘文で神功皇后が生きていた時代ではないかといわれているので、4世紀になる。
神功皇后の夫は、仲哀天皇で4世紀と想定されるので、ここくらいになると時代のずれがなくなる。

神武天皇が仮に、紀元60年くらいに東征すると、そこから310年で、14代だから、13代世代差がある。310年で、1世代30年ずつなら、390年で、早死にする天皇もいたから、なかなかちょうどいい年代差になる気がする。


じゃあ、欠史八代は、一応天皇にカウントしてもいいけど、たぶん何も大きな戦争やめでたいこともない時代だったのかもしれない。
平和すぎると、忘れちゃうのだwww


というわけで、推論するとこんなかんじ。

奴国の王様で金印をもらったのは、もしかしたら、海幸彦だったかもしれない。
欠史八代は、いたけど、神武東征が1世紀くらいなので、数的には1世代30年ずつなら、まあ悪くない感じ。


どうだろう?
これでだいたい世代と時代が、だいたいあってきている気がするのだが・・・。

160歳まで生きてましたー、なんてむりくりな嘘はなくなって、普通に30-50歳くらいで生きてましたーってことになるのだと思う。
まあ、たまに60歳とか70歳くらいまで生きた天皇はいたかもしれないが。

【追記】
もう1つ、三種の神器がみつかったお墓があったので、追加します。忘れてましたー。orz
これらよりも古いです。

吉武高木遺跡

旧石器時代以降の各時代の遺跡が点在し、本項で取り上げる吉武遺跡群もその一つである。」
「高木地区には大型の甕棺墓と木棺墓が集中する特定集団墓がある。弥生前期末から中期初めにかけて営まれた墓群のうち甕棺墓7基と木棺墓4基から、青銅器、装身具などの豊富な副葬品が出土した。北隣の大石地区でも弥生前期末から中期前半の甕棺墓11基と木棺墓4基から副葬品が出土している。これらの副葬品は、1984年度の第6次調査(高木地区)と1985年度の第9次調査(大石地区)で確認されたものである[4]。

なお、有形文化財としては、高木地区、大石地区、樋渡(ひわたし)地区の出土品645点が1987年6月6日付けで重要文化財に指定されている[5]。」
「吉武高木遺跡の特定集団墓は、弥生時代中期前半の青銅器や装身具が出土し、奴国首長墓とされる須玖岡本遺跡D地点や伊都国首長墓とされる三雲南小路遺跡(ともに弥生中期後半)に先立つ「最古の王墓」と呼ばれる。東西50メートル、南北30メートルほどの区域に甕棺墓と木棺墓が集中している。いずれの墓も墓壙は長方形で、中軸線は北東に振れており、被葬者の頭部も北東向きである。甕棺墓7基と木棺墓4基から以下の副葬品が出土した(他に副葬品のない甕棺墓もある)[6]。」

全体はリンク先のWikipediaをみていただくとよいが、メインの「三種の神器」はこれである。
木棺墓3号細形銅剣2、細形銅矛1、細形銅戈1、多鈕細文鏡1勾玉1、管玉95あり「三種の神器」を連想させる剣、鏡、勾玉が出土」

「上記の中核的な墓4基にはいずれも勾玉が副葬され、逆に、他の墓には勾玉が副葬されていない点も注目される。このことから、この墓群においては銅剣などよりも勾玉が階層性を表していることがうかがえる。また、これら4基の墓から出土した計4箇の勾玉は、いずれも異なったタイプに属している。2号木棺墓に副葬されていたのは「緒締形勾玉」で、縦横に孔が貫通するとともに、紐掛けのための溝を彫っている。110号甕棺墓の副葬品は「縄文的穿孔勾玉」で、縦横に孔が貫通するが、溝は彫っていない。3号木棺墓の副葬品は「獣形勾玉」で、四足獣か胎児のような形を呈する。117号甕棺墓の副葬品は「弥生定型勾玉」で、もっとも一般的な勾玉である[9]。」

勾玉持ってた人のほうが、身分的に上位にあるようです。
なんていうか、バイクより車持ってる人のほうが金持ちだよね・・・みたいなかんじでしょうか。

「吉武高木遺跡の特定集団墓から出土した青銅器はいずれも大陸系の遺物であるが、大陸から渡来した青銅器はやがて北部九州でも作られるようになる。これは青銅器の製作技術をもつ人々が朝鮮半島から渡来したためと考えられ、初期青銅器には大陸製か日本製か判断のむずかしいものがある。3号木棺墓から出土した銅鏡は、鏡背に細線で細かな文様を表し、中心からずれた位置に2つの鈕(ちゅう)を設け、外縁は蒲鉾形断面とし、鏡面はわずかに凹面になるなど、著しい特色をもつ。この種の鏡を多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)と称する。多鈕細文鏡は朝鮮半島と日本に分布するが、その起源は中国東北部の青銅器文化に属する多鈕粗文鏡であるとされる。この種の鏡の日本での出土は十数例しかない[14]。」

多鈕細文鏡というのは、古いデザインです。なので、時代が古いのは、証拠づけられます。

「吉武高木遺跡については、奴国首長墓とされる須玖岡本遺跡D地点や伊都国首長墓とされる三雲南小路遺跡に先立つ、「最古の王墓」との見方もある。ただし、弥生中期前半に属する吉武高木遺跡を、中期後半の須玖岡本および三雲と同様の「王墓」とみなしてよいかについては、なお慎重な見方もある[16]。」

王墓と確定していいかは微妙という意味で、「王権」ほどの統治意識はなくて、ただ豪族がいて、そのうちの1人が筆頭っていうだけ・・・という意味かもしれないのだ。

時代は弥生中期前半とあります。
中期は紀元前1世紀頃ですので、紀元前90-60年頃かもしれないです。

ちなみに、井手先生の本の解説では、
銅矛や銅戈があるのは、三種の神器以前の文化スタイルでして、同じようにセットで金持ち古代人は持っていたようです。
井手先生や原田大六先生は、
(1) スサノオは、台風の神様
(2) 天照大神に負けて、追い出されたが、スサノオが持っていた銅矛や銅戈、銅鐸がぜんぜん台風を沈めることもなく、役立たずだとわかったので、これらは製造されたり、価値が高いと思われなくなった。
(3) その代わりに、価値がある祭具として「剣、勾玉、鏡」となったが、剣よりも、「勾玉と鏡」のほうが重要で、特に鏡は光るので「太陽神」のシンボルになった。稲作に太陽は重要だから、鏡の価値が高い。

そんなわけで、スサノオー銅鐸文化は「役立たず」で、「太陽 天照ー鏡文化」にメインが移っていったということです。
古いのほど、銅矛や銅戈を持っていますよね。

ついでに銅鐸は出雲一族が使いたいもので、天孫一族はそれを作って、売っていたらしいです。
なるほど、たしかに、自分で使うものを自分たちで作る必要はありません。別のものと物々交換すればOKです。


では、この中でメインの墓の主は誰か?
アメノオシホミミは、すでにあててしまったので、それより古い王様は、天照かスサノオか、イザナギしかいなくなってしまいます。
性別がわからないし、天照は男装というか武装していたこともあるし、天照はそもそも男性だった説もあるので、もしかして、「王権」が未完成ということで、天照大神の墓かもしれないです。

これより古いのが出るかどうかで勝負が決まりそうです。
玉依姫だって、原田先生が「玉依姫の墓」と仮説をいわなければ、誰のものかわからず、ただの「太陽の巫女」で終わっていたかもしれないのです。

イザナギでないのは、イザナギの墓はおそらく瀬戸内海、四国近辺にあると思われるからです。イザナギを祭る神社もあります。
船で、子供のうちに四国あたりに移住して、その後、天照が九州に移動したら、ありえます。
ただ、かなり高齢のじいちゃんになったイザナギが、子供の天照の財力で、立派な副葬品を用意してもらって、丁重に葬られた可能性もないことはないです。

しかし、不思議なことに、メンバが増えているのです。イザナギイザナミ夫婦の子供で、兄姉なら当然ですが、あまり血筋に関係ないかんじの神様、高天原メンバーもいる。
「古事記」「日本書紀」の天岩戸のところを見ればわかる。
ついでに、ニニギの天孫降臨についても、ついてきている。幹部というか、技術者集団だ。

天孫降臨に際して天児屋あめのこやね命太玉ふとだま命天宇受売あめのうずめ命玉祖たまのおや命伊斯許理度売命ら五伴緒神いつとものおのかみが邇邇芸ににぎ命に随伴している。」

特に鏡を作ったのはこの人だ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%89%E3%83%A1

この人、親が天糠戸となっているが、その親についてはほぼわからない。大山祇命という説もあるが、これ、山の神様でどっちかというと縄文人くさい。天孫族ではないことになる。ややこしい。
(神様たちはなんでも、天津神の子孫に、系図をごまかす傾向があります。私的には、天津神は渡来人、弥生人であって、地元の人は縄文人と思っています。)
日本に来る前に死んでいたので、名前だけで事跡がないのかもしれない。

ちなみに女性で、年配っぽいのだ。

勾玉を作ったのはこの神様で、忌部氏の先祖ということになっている。

神様はどんどこ遡ると、だいたいここらへんにつながる。

まあ、ここらが「日本に来てたけど、豪族や王族ほど権力がない、無名の一般人レベル」であるか、「大陸にいて、そのまま死んで親子関係を強調しているだけで、外国人とばれるとまずいので神様扱いになっているだけ」の人である。

あ!
この無名のお父さんたちがすでに日本に来ていたら、イザナギが苦労しないでも、たかだか九州→沼島への移動に、夫婦2人だけで楽ちんに行けてしまう。
要するに、高天原はまだずっと九州北部であって、ハネムーンに出たのが、イザナギイザナミなのだ。それで、要するに「子供部屋おじさんじゃいかんで、嫁をもらって、2人で独立するんじゃー」と追い出されて、独り立ちしただけなのだwwww


そういえば、天岩戸でこういう記述がある。
「賢木(さかき)を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八尺鏡と布帛をかけ、布刀玉命が御幣として奉げ持った。」
(’剣はまた別なので、ここでは鏡と勾玉しかない。)

原田先生が、平原遺跡の鏡が「割れていた」という理由に、モガリの宮で棒に鏡と勾玉を吊るして飾って、それが台風の風などで倒れて、鏡が割れたのだという話があって、このように枝にぶら下げられていたら、割れてしまっても当然だなあと思うのである。


どうでしょうか?
だいたいの流れは、整ってませんか???


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