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親になるという事

息子がもう少しで15歳になる。
ということは、あたり前だが、私も親になって15年だ。

結婚して1年目で息子を妊娠した。とても恵まれていたことだと、2人目を出産するまでの間に4回流産した頃にようやく気付いた。

さてその息子、育てるのにとてもとても苦労した。
まず、臨月の時に腎臓疾患を抱えていることがエコー検査で分かった。あとひと月で出産という時に胎児である息子の腎臓に黒い影が写り「水腎症」の診断を受けた。そして急遽総合病院での出産になったのだ。とはいえ、普通分娩で健康に生まれ、その後は「定期健診で様子をみましょう」という類の、あまり深刻にならずに済むやつだったのだが、とにかく生まれるまでの不安は、初妊婦の、まだかろうじて20代だった私にはそうとうガツンとくる出来事だった。

そして生後2か月、突然の発熱だった。夜中におむつ替えをしようと暗闇で触ったまだ肉がさほどついていない息子の太ももが妙に熱かった。慌てて体温計を手に取り図ると38.2度ほど(だった気がする)。前述した「水腎症」があったので「発熱した場合はかならずこちらの病院に来てください」との指示を受けていたので、迷わず息子を産んだ総合病院へ母と駆けつける。なんとなく泣き声もいつもより弱々しい。一晩入院し、状態を診てもらうもどうも先生の様子がおかしい。

次の日の朝、ナース・ステーションの裏にある小部屋に母と通された。そのテーブルには分厚い医学書のようなものが置いてあり、ページが開いてある。ふと目に飛び込んだ文字に愕然とした。「・・髄膜炎」
何かの間違いだろうと見なかったことにしたが、落ち着いた口調で担当医(Y氏)から発せられた言葉は「お子さんは、おそらく細菌性髄膜炎だと思われます。」だった。

後頭部を鈍器で殴られたような、内臓が一気に冷えるような感覚に襲われ、ほとんど崩れるように椅子に座っていた。というのも、息子を産む数週間前にTVニュースで同じ病気の後遺症で苦しむ子供の特集を見ていたのだ。その流れで母からも、ご近所さんでその病気で亡くなった子が何十年か前にいた、と聞いていた。

「まさか、そんな病気にかかるわけない。何かの間違えであって」とY氏の言葉を聞く前に胸の中でぐるぐると唱えていたのだが、そのまさかだったのだ。

息子はおそらく、出産の際に何らかの原因で母体から溶連菌を取り込んでしまい、また何らかの原因でそれが髄液に入ってしまい、そして、Y氏曰く「200万分の一の確率で発症してしまった」とのことだった。

そんなことあるのか。。涙がとめどなく流れ、私も母も「なんとかしてください。とにかく、助けてください」 すがりつくような声でY氏に懇願していた。そして、そんな私たちにY氏は「とにかくできる限りのことはやります。それに、発見が早かった。それはとても良いことです。」と言ってくれたのだった。

そう、不幸中の幸いとはこういう事をいうのかもしれない。息子は「水腎症」があったおかげで、軽度の熱でも総合病院にまっすぐ向かい、その分変な解熱剤でごまかすことなく詳しい検査をすぐ受けることができたということが、発見の速さにつながっていた。

その後はトータルで約2か月の入院生活を息子と共にした。髄膜の炎症からくる水頭症(のちに水ではなく血液がたまっていたことが分かったのだが)で頭が大きくなってしまい、それを抜く処置(穿刺)をしたり、CT検査、エコー検査、とにかくあらゆる検査を受けなければならなかったのだが、其の度に息子を寝かしつける苦労があった。睡眠剤はまだ幼すぎて使えなかったのだ。その間私は腱鞘炎やストレス性の胃腸炎をおこし、息子と同じ病院の別棟で数時間点滴をうけたこともあったっけ(あの間は看護師さんに息子をおねがいしたのだった。ありがたい)。

夫はそう、長期出張中で病院に来れたのは病気発覚から1週間ほど経ったころだった。正直あの頃夫に何をしてもらったのかの記憶はあまりない。洗濯物をお願いしたり、食事を運んでもらったりはしたが(息子の離乳食のようなものは出るが母親の食事はもちろん出ない)、とにかく必死で毎日息子に授乳し、あやし、あのせまいベッドで毎日を過ごしていた。

5月に入院し、退院したのは初夏だった。その後息子は無事成長し、後遺症も一切なく1歳になるころには歩いていた。いや、実際は1歳になるまでにその水腎症からくる感染症で数泊の入院をしたことがあったが、それ以外はいたって健康にたくましく成長していった。

あぁ、なんという怒涛の1年だったのだろう。。

あれから15年。
当たり前のように日々生活している今は、日常という名の奇跡だ。

息子、悪態つくのもほどほどに、つながれた命を大切にして自分の人生を生きるんだよ。

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