散文「私、大丈夫だ。生きよう。」2023・10・3

生きるのが苦手だ。生活が何もかも苦手だ。うんざりしてしまうくらいに。
でも日々は積み重なって。またやってくる。うんざりしてしまう。

自分で言葉にするのは憚れるのだが、
表向きは華やかで前向きで明るい存在として受け入れられることが多い。
それは意図的というよりも、もう体に深く染み込んでいる一つの「私らしさ」であることは間違いなくて、そして傍から見たら恵まれているとされる部分もあると自負している。

でも中途半端な振り切れなさがある。どっちつかずなんだ。中途半端なんだ。
それがとてつもなくもどかしい。
どこにも居場所がないような、そんな、息苦しさ。

私はあくまで前向きに、色々なことを諦めてしまった。
実はつい最近までいつか靄が晴れて、晴れ晴れと生きていける日が来るのだと、思っていた。だからもがいた。

「信じる」について。
「火が熱いことを信じる」という言い回しはしない。「信じる」という言葉を持ち出す時には、どうじに「疑い」を孕む。
私は「火が熱い」とかそういう類のことのように、コツさえつかめば、道さえ見つかれば、心が晴れ渡る日がやってくると思っていた。愛おしいほどに健気だ。

でもはた、と気づいてしまった。私は曇り空のもと生きていくのだと。
移ろう雲の流れに心をあそばせ、たまに差し込んでくる日差しを心待ちにし眩しいその日差しに心をときめかせるようにして生きていくのだと。
そうやって生きてきた。
もうだめだと、もう嫌だと、そう思ったときにまるで見計らったかのようにスッと差し込む光に支えられて、何とか生き延びてきたのだ。


沢山の本を読んできた。本を読むことは頑固に凝り固まった自分を解放してあげるための術だ。沢山の素敵な言葉や思考に触れてきた。

何か自分の中に何らかの感情が生じた時、
それを包み込んであげらあれる言葉や思考のストックがかなり充実していると思う。
その感情が暴走すると、「生きる」ということをやーめた!となりかねない危うさがある。
だからこそ、私はせっせとストックを蓄えてきた。

その危なっかしい感情は、優しく包み込まれて暴走を止められる。勢いを抑えることができている。花火をバケツの水のなかにジュっと投げ込むような。

そうやって私はここまで生き延びてきた。大人になった。

「でも、」と思ってしまう。
私の中には「でも、でもさ、」でぎゅうぎゅうだ。
わかっちゃいるのさ。それでもさ。

包まれた感情は、どんな温かく優しいものに包まれたとしても、完全に眠ってはいない。決してなくなることはない。どんなに分厚く包まれても、その核にあるそのややこしい感情の存在を無視できない自分がいる。

だからこうやって文を書きたいと思う。

包まれるだけでは静まり切れない私の厄介な感情とどうにか折り合って生きていきたい。だからこうやって文を綴る。言葉にしてみる。

この厄介な感情のたった一人の主として、見過ごさずに、ほっとくことをせずに、掬い挙げていきたい。

自分の納得できないことに人生をささげることができない。
私にとって「苦手だ」がない。苦手だったらもう「できない」に割り振られてしまう。もうやめるしかない。離れてしまうしかない。苦しいけれどサヨナラなんだ。
逆に「馴染む」という感覚にも凄く敏感だ。体に馴染んでしまったら、それは傍から見てどれほどの悪条件であっても、私にとっては何にも代えがたい極上の価値を孕んだものとなる。
そのズレに対してはあまり動じなくなってきた。それは大人になって、人生の時間を重ねて良かったな、生きてきてよかったな、と思う部分。

たまに、生きていると自分と身を置く社会と上手く噛み合ってぐんぐん進んでいくタイミングが度々やってくる。そこで私は嬉しくなってしまう。ああ、もう私は大丈夫にやっとなったんだ、と喜んでしまうのだ。でもそれは長くは続かず、それは少しずつの時もあるし、突然ガクンと大きくやってくることもあるのだけれど、残念ながら世間との隔たりを突き付けられる。
これを私は一体何度くりかえすのだろう。
もうそろそろ手放したい。
「馴染みたい」と思うのを。「大丈夫になりたい」と思うのを。

そうじゃなくて、不格好な私の輪郭を繊細になぞってくれるような私に馴染むものを丁寧に選ぶように、それらを精一杯の愛を込めて守るように、そうやって生きていこう。
たった一人、私が「大丈夫」と思えることが、どれほどの力を持っているか、それは私が一番知っているじゃないか。

私、大丈夫だよ。生きよう。



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