自己紹介って何だ?自己紹介ってクソだよ

皆さんこんにちは、ご機嫌よう。

アンテナライターの川合(@Katsura_Liberty )です。

まずは急ごしらえの自己紹介を。

--------------------------------------------------------

川合裕之(かわいひろゆき)

兵庫県在住の22歳。男性。関西学院大学在学中。
新卒後即フリーライター。
得意分野は映画批評と散歩。それからダウナー系ひねくれコラム。

主な寄稿メディアとSNSはこちらから。
https://linktr.ee/plastic_pocky

--------------------------------------------------------

はい。

そしてここからが本編です。自己紹介、すごく苦手です。敢えて無理やり自己紹介をするなら「自己紹介が出来ません」てな具合でしょうか。

自己紹介ーー「自己」を紹介、つまり言葉で定義すること。定義、それはつまり一種の参照(reference)です。

「この鼻の長い動物は象です」という文章があったとします。この説明を受けた人の頭のなかで目の前の「鼻が長い動物」の画像的な情報が「象」という言葉と一対を成します。そして象は「鼻が長い動物」に固定化されます。

冒頭の自己紹介では「川合裕之」というフルネームが、「ライター」という職業(のような何か)が、この顔かたちが、僕という人間・人格を参照しています。

しかし。人格をこのように何かと紐付けすることは可能でしょうか?

「かわいひろゆき」という7音の羅列が発生する確率は46文字の7乗分の1。僕だけの物じゃない。漢字変換したところでこの状況は大して変わりません。しかもここは海より広いインターネット。虚実入り交じる言葉の妙技で黒を白に、白を黒にする国。僕の「名前」がペンネームでない保証はないですよね。これはネットの世界に限らず。この先僕が婿養子に入るかもしれないし、仏門に入るかもしれないし。

「ライター」という肩書き。これも昨年2017年の4月にWebで文章が載り始めた僕が、その2ヶ月後くらいから自称し始めたもの。それではこの定義にそれ以前の僕は弾かれてしまうことになります。この世界が5分前に生まれたものであれば話は別ですが、少しお粗末な気がしてなりません。

「顔」だって可変な物体の最たるもの。最近はある意味コンテンツとして人前に出るときは意識して同じような格好を心がけてはいるけれど、別にパジャマでイベントに登壇したって構わないわけだし。いや駄目か。本当の僕は言わずもがな全裸だけど、僕の全裸を知る人は多くない。かといってじゃあ僕らはアダルトビデオを見て出演者の人となりを理解できるのか?と言われると……。はい、そうなんですよ。(あ、しかもあれ演技らしいです)

自分を定義する。IDentifyする。これは難しい。

こういう場合に好きな映画や音楽を言う人もいますが「こういうコンテンツが好きな人は大抵こうだ」という類型を引用してきているに過ぎません。要はアイデンティティの外注行為。これも自己の核を端的に表現しているとは言い難い。たとえば最近で言えば映画『勝手にふるえてろ』が個人的な大ヒットでしたが、この映画を見る前から僕はこんな人間でした。あの映画があろうと無かろうと、僕は僕なわけですよ。

言葉で自分を固定化したらその域を出られないのではないか?という問題もついでに浮上します。「悲しい」という語彙を持って初めて悲しさを知る、とか文化圏によって虹の色の数が違う、とかこのあたりと同じ文脈です。あるいはA型を自認する人が実はO型だった、なんて時にその人の几帳面の度合いは揺らいでしまいのでしょうか?否。

じゃあ自分って何なんだ?もはや経年劣化したようなデカルト的な物言いをするつもりは毛頭ありませんが、要は言語による自己紹介が極めて脆いものだってことです。

はい。

そんなことを考えています。こんな風に実体のない概念と常々戦っています。一方で「ややこしい人間であることを誇りに思っている」なんて思われていたらどうしよう、と思っています。……なんてことを思っているんじゃないか?と思われていると思っています。
とにかく言葉ってのは厄介で、不確実。優柔不断で頭でっかち。僕はこの言葉ってヤツを商売道具、または商売敵にしようと思います。

と、ここまで占めて約1800文字。これを川合裕之の自己紹介にしたいと思います。


おわり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?