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なぜ書くのか

人を理解する事なんて出来ないと思う。

5人の子どもの事も、1人1人の想いを理解することは出来ない。


障害を持つ弟の事も小さい頃から、全く理解できなかった。


そして虐待をする父の事は、到底理解出来ない。


だから私は観察した。

観察して分析して、また観察して。

自分自身の事も観察して分析を繰り返した。


観察と分析を繰り返すには、沢山の人達と対話する事が必要だ。
それには体力が不可欠である。


幸いにも私には、煮ても焼いても決して死なない父の血が流れていて、かなり丈夫な身体を持っている。


父の母についても長い間、観察と分析、そしてインタビューを繰り返した。


見えてきたのは、戦争と貧困と発達障害によって生まれた虐待の連鎖。


遺伝的要因に、環境的要因が重なっておきる現象だ。


虐待の連鎖を止めるには、この2つの要因を徹底的に客観視する必要があった。


自分には血が流れているということ。

発動するには、環境的要因が重要なこと。


ならば、環境的要因は自分でコントロールするしかない。

そして、それを支えてくれる周りの人達への感謝を忘れないこと。


主人の支えがあったからこそ、観察、分析、インタビューを続ける事が出来た。


そして友人達、仕事で関わったすべての人達との対話のおかげで、まとめていける事が出来た。


今でも、人を理解することなんて出来ないと感じているし、自分を理解してほしい。とは、全く思っていない。(なぜなら不可能だから)



これからも、私は観察と分析とインタビューを繰り返すだろうが、

一通り必死に生きてきたので、これからは、意味の無い事に時間を費やし、余白を楽しむ生き方になるだろうと思う。


江戸時代から続く自然を相手に、農家として、無限大に観察と分析を繰り返す事が出来る日々を過ごそうと考えている。


なぜ書くのか。


理解したいというわけではなく、理解してもらいたいというわけでもなく、ただ余白を楽しんでいる行動ということだけ。

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