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映画『PLAN 75』の確かな肯定感

昨今"話題"の「高齢者は集団自決、集団切腹すれば」云々の発言に対しては、ダチョウ倶楽部さんの名言を拝借して、「あなたから、どうぞどうぞ」と言うより外ない。

だいたい、子どもたちから見れば、この発言者も立派な高齢者なのだから、きっとこれはギャグのつもりなのだろう。余りにも低劣だが。


2016年、神奈川県で起こされた障がい者施設での殺戮事件について、何年も考え続けている。
「事件を起こした理由は?犯人は何故こんなことを?どうしたら犯人は人を殺さなかったのか?」と。

しかし最近になって、結局、あの犯人は「殺したい」欲求の実現だけが目的であって、その目的を実行するために「殺しやすい相手」を選んだに過ぎないのではないか、と考え付いた。

あの犯人の動機や理由に関する"言葉"は(施設職員だったキャリアがあることで、なまじ)その一部に具体的記述があったことで伝播し、論議を呼んだのだが、要するに、後付けの屁理屈なのだ。

人、生き物が個体である以上、個体全てに差異がある。

社会的多数者は、その差異が自分たちより大きい存在である者たちを「少数者」であると規定し、さらに、その「少数者」を愚か者は差別し、排除する。

あの犯人は、自身を多数者であると規定したい欲求が肥大した、自己と他者との「境界」を認識できない、という「個体」であり、これを自認できないのは「個体差」であるだろう。

しかし彼は、無防備な人へのみ攻撃性を発揮する、単なる臆病な卑怯者なのだ。

だから、あの"言葉"に付き合う必要など何もない、と気がついた。
(犯人が殺戮欲求を持ち、対象を選択した原因については、瀧川一廣さん著「子どものための精神医学」で述べられた"認識と関係"が未発達である、と整理可能と私は考える。)


映画「PLAN 75」が第65回ブルーリボン賞(監督賞・早川千絵さん、主演女優賞・倍賞千恵子さん)を獲ったのは真に目出度い。

この映画は人物三人それぞれを軸にして語られていく。

一人は78歳、仕事も住居も失い、PLAN75法という<75歳以上の人に、国家行政が死ぬことを薦め、死を実行する法律>に身を任せることを選ぶ角谷ミチ(倍賞さん)。

一人は75法の申請業務を担当する若き行政職員で、申請に来た叔父の意思に沿い行動し、逡巡し始める岡部ヒロム(磯村勇斗さん)。

もう一人は来日フィリピン人で、介護施設の給料では子どもの病気を治す費用が足りないので、75法施設に勤務することになるマリア(ステファニー・マリアンさん)。

この三人が交錯するのはごく短い場面だが、
俳優三人とも、細やかな演技で、生と死に対する心理の移ろいを表現していく。

加えて、75法を申請するヒロムの叔父(たかお鷹さん)、ミチのエピソードに登場する同年代の同僚たち(大方斐紗子さん等)、75法の補助者であるコールセンターの若い女性(河合優実さん)、それぞれ強い印象を残す。

また、ミチが高齢だからとアパートを紹介できない不動産店、ヒロムが検討する公園のベンチの「寝させない」工夫、無料の炊き出し会場にたなびくPLAN75の幟旗、会場の看板に投げつけられる汚物など、嫌な挿話が幾つも出てくるのは、現代性に富んでいて、既視感がある。

ミチとヒロムの叔父が、自ら死を選ぶ意思を持つまでの運びはとても丁寧で、見ていて苦しくなるほどだが、それよりも、彼らが死を選んでから、どう動くか、が、この映画の最も訴えたいことだと思う。

最終盤は、これからも長く語られる名場面だろう。

生命とは、自然であること、自然とすることだと、早川監督ら制作陣の確固たる肯定感が、シンプルかつストレートに伝わってくる佳作だと思う。

口数の多い、愚か者たちの言説に迷ったり、苦しんだりする人たちにこそ、御覧頂きたい映画です。

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