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寝ずの番をしながら、彼の好きだった曲たちをかけた

8月の末、高校の先輩であり、仕事では後輩でもあり、音楽仲間で、私には数少ない親友が亡くなった。

彼の葬儀で私は「寝ずの番」を買って出たのだが、それは、彼が最期を迎えようとしていたとき、彼があんなに好きだった音楽を鳴らせない環境だったことが悔しくて、せめて通夜の晩には、それらの音楽たちで彼と過ごしたいと思ったからだった。

彼は1963 (昭和38)年9月の生まれだったから、ちょうど60歳となる、その直前に亡くなったことになる。

その彼に、彼の納められた棺に向けて鳴らした音楽たちを記録したかったので、この文章を書いている。

彼は1970年代の中盤に音楽と出会い、自らもギターを弾き、レコード、CD、ビデオテープ、レーザーディスク、DVDを蒐集し続けた人だった。

そんな、私と同じく初老の男が好んだ曲だから、全くトレンディではないだろう。

しかし、この文章を読んだ人の心の端っこに、こつん、と響く曲があったら、彼もきっと、もちろん私もだが、シンプルに嬉しいだろうと思うのだ。

先に言い訳をするのだが、彼の好む音楽と、私のとでは違いがあって、それは50年近くも音楽に耽溺した者たちとしては当然のことだろうが、通夜の晩にかけた音楽は、彼の好んだ曲を私が思い出して(彼の妻に一部アドバイスを受けたのだが)選んだものである。


最初にかけた曲。
この数年、彼が私に「これ聴きなよ」と薦めたミュージシャンと言えば、Bish 。
それなら、と聴いてはみたが、私には合わなかった。
でも、彼の葬儀にはむしろ、ふさわしい、と思った。
ファースト・シングルだと思うが違うかもしれない。ごめんなさい。

Kate Bush "Running Up That Hill"。
ケイト・ブッシュは私もごく一時、集中して聴いていて、この曲はアルバム"Hounds Of Love" の一曲目。
このアルバムの邦題は「嵐が丘」。1985年リリース。
日本発売時に、驚異の64トラック録音、と叩き文句が付いていたと思う。
このCDは彼から借りたままになってしまった。

U.K. ”Danger Money”。
1979年のライヴ盤 "Night After Night" から。
ジョン・ウェットンも数年前に亡くなった。
私はオンタイムでは、ラジオで聴いていた程度だったが、彼はこのトリオが大好きだった。
今聴くと、良さが私にもわかるのが、少し切ない。

KISS "Black Diamond"。
1974年リリース、ファースト・アルバムのラストの曲だ。
私はKISSはずっと苦手で、彼やファンが好きな曲は申し訳ないがわからない。
しかし、私たちの世代のロック・ファン、ラジオ・リスナーには(クイーンと並んで)とても人気があった(ある)バンドであるのは間違いなく、私も何枚かは聴いていて、1~5枚目のアルバムには、良いと感じる曲がある。
これはそのうちの一曲。

Rainbow "Kill The King"。
1978年、レインボー4枚目のアルバムから、コージー・パウエルのツー・バス連打で有名な一曲。
彼はリッチー・ブラックモアが、コージーが、というより、このアルバムが好きだった(ような記憶がある)。
彼のリスナー歴はハード・ロックから始まったのだと思う。
アメリカンよりもブリティッシュ、ユーロピアンのミュージシャンたちを好んでいた。
70年代のハード・ロックは当時の日本のラジオ局でも頻繁にオンエアされていたし、紹介されるバンド、ミュージシャンの数も多かった。
中でも特に人気だったのが、リッチーも在籍したディープ・パープル、キッス、そして、クイーン、チープ・トリックだった。
パープル解散後にリッチーが結成したのがレインボーで、その後は徐々にポップ化していくのだが、人気も拡がっていったのだから、その戦略は正しかったのだろうが、ポップに行く前の「全編ハード・ロック」最後のアルバムが本作であり、ハネるビート皆無の、音が一面に敷き詰められた一枚だった。
そういえば彼は、後の Fishbone や Living Color といった黒人ミュージシャンによるハード・ロックは明確に拒否していたものだ。
一言「俺には合わない」と。
そういうものなのだろう。

Tears For Fears "Change"。
1982年リリース、TFFのファースト・アルバムからの(たしか)セカンド・シングル。
私は国内盤シングルを買って、ヘビロテした。
彼も好きだった曲。
このイントロは今も格好良いと思う。

Steve Hackett "Every Day"。
寝ずの番で音楽をかけたい、と私が彼の妻に承諾を得たとき、それなら、と彼女が名を挙げたミュージシャンに、スティーブ・ハケットもあった。
私は名前しか知らないので、Spotifyで曲を選んだのだが、この曲がとても良かった。
なぜ今まで聴かなかったのだろう、と思った。
1979年のアルバム "Spectral Morning"から。

David Bowie "Heroes"。
後述するが、彼はロバート・フリップのマニアだった。そのフリップ氏がギターを弾いている(全体に鳴る永続したギターの音など)。
決してボウイのファンではなかった彼と、私の共通したフェイバリット・アルバム、1977年作品の表題曲。
私はボウイについて語り出すと止まらない者だが、このアルバムはボウイの、ヴォーカリストとしてのポテンシャルの最盛期の掉尾を飾る作品と言えると思う。

Todd Rungren "Never Never Land"。
1973年のアルバム "A Wizard / A True Star"から。
トッド・ラングレンも彼と私の共通したフェイバリット・ミュージシャンだ。
極めて独創性に富んだ、トッド自身が「ひとつのジャンル」と言える人だろう。なぜか日本で人気の高い人でもある。
どのアルバム、曲も良いのだが、選んだのはまたしても、亡くなった彼から借りたままになってしまったCDから。

The Rolling Stones "Street Fighting Man"。
彼がいちばん好きだったストーンズ(我々は、ローリング・ストーンズ、とは呼称しない。ストーンズと言えば、この人たちなのだ、と爺さんは主張するのである)の曲。
他にも良い曲は山のようにあるが、私自身も好きな曲のトップ付近にある曲。
1968年リリースのアルバム "Beggers Banquet"から。

Hatfield and The North "Going UpTo People And Tinkling"。
カンタベリー系、と言われるグループが1974年にリリースしたアルバム "Hatfield and The North"から。
恐らくこの一枚だけがハットフィールド&ザ・ノース名義のスタジオ録音盤なのではないだろうか。
彼は若い頃からカンタベリー系が好きで、ずっと聴いていた。
私がこのアルバムを買ったのは10年程前のことで、きっかけはインターネット・ラジオだったと思う。
一聴して、このアルバムにしかない音、音色に惹かれてしまったのを憶えている。

Soft Machine "Priscilla"。
こちらもカンタベリー系と呼ばれる、むしろ、カンタベリー系の最も有名なバンドであろう、ソフト・マシーン。
1968年リリースのファースト・アルバムからの曲。
このバンドは、この後の変遷をみると、「~系」とカテゴライズするには余りに無理がある。それほどに音楽の幅がとても広い。
ドラムスのロバート・ワイアットは、バンド脱退後に Matching Mole を結成するが、彼はこのバンドのファーストも愛聴していた。

そろそろ彼も、ラウドな音が欲しくなって来ただろう、ということで、Led Zeppelin "Immigrant Song"。
1970年(そんなに昔か)リリース、ツェッペリンのサード・アルバムの一曲目。
彼はギタリストでもあって、この曲も当然のように弾けたので、何度か一緒にスタジオに入った時は(私はベース)、練習の合間に演奏したものだ。
この「移民の歌」、音数は多くないが、合わすのが大変だった憶えがある。

唐突に、The Stalin "虫"。
1983年発表の同名アルバムから。
彼はザ・スターリンが好きだったのではなく、このアルバムのみが好きだったようだ(この辺りが私と異なる)。
この曲は長尺だが、収録されている他の曲は1分未満から3分台ばかり。
ハードコア・パンクのリズム、テンポに乗る、ミチロウさんの「短句」は鋭いし、詩的だな、と思う。

Them Crooked Vultures "New Fang"。
2009年リリース、このバンド唯一のアルバムから。
彼が教えてくれた名盤。
演奏は極めてヘヴィーだが、若々しいのが印象的。
リリシズムを排した作曲・構成は、初期パンクにも通ずるものだと思う。
それにしてもジョン・ポール・ジョーンズの頭の柔らかさ、若さには感動を覚える。
ただ、通夜の晩のBGMには合わなかったが、そこは御愛嬌で。

もう少しラウドな音を、ということで、Red Hot Chili Peppers は二曲をかけた。
1989年リリース、4枚目のアルバム、これも大名盤 ”Mother's Milk"から、"Good Time Boys"。
1、2、3枚目と、一部マニアの間で矢鱈と高い盛り上がりを見せたものの、言ってみれば好事家向けのバンドでもあったレッチリが、リズムをファンク・ロックで貫いたことで、質量ともに初めて成功した一枚だろう。
この時期にレッチリは初来日し、私は川崎クラブチッタでのライヴに行ったが、なにしろ演奏が上手かったし、突然、セロニアス・モンクの「ベムシャ・スイング」のメロディーに乗せて「F******」と連呼する曲(もちろん未発表)を演じたのには観客も爆笑したものだ。
もう一曲は、ジョン・フルシアンテ(G)の最初の離脱後、1995年にリリースされた6枚目。
この前の5枚目アルバムが "Blood, Sugar, Sex, Magic" という歴史的アルバムだったこと、ジョンの離脱もあり、余り注目は集まらなかった一枚だが、亡くなった彼は、このアルバムが好きだった。
今聴くと、最近のレッチリの雰囲気が既に存在している。

明け方が近くなって来た頃、ビートルズをかけようと思って、まず選んだのは彼が大好きだった「ホワイト・アルバム」 (1968年)から "Dear Prudence"。
昔、あれほど聴いた曲だが、佳い曲だと改めて思った。
続けてかけたのは、"Abbey Road" B面のメドレーだったのだが、それは配信だと雰囲気が違うので、ここでは紹介しない。
ぜひ、レコードかCDで聴いて頂きたい。

ビートルズを聴いたので、次は The Rutles "Doubleback Alley"。
1978年リリース(で合っていると思う)。
ラトルズの曲の中でも、ビートルズ楽曲の要素は最少ながらも、いちばんビートルズの雰囲気がある曲になっていると思う(元々は、メンバー(?)のニール・イネスによる曲だ、という説もある)。
当時から彼は(彼だけでなく、私や、周りの音楽好きたちも)ラトルズに入れ込んでいた。
一曲に詰め込まれたアイディア(ビートルズ楽曲の引用、オマージュ)、濃密な構成、音色・声色まで似せた技術力。アルバムとして見れば、トータリティも高い。
これを私たちは15歳前後で初めて聴いたのだから、今から思えば贅沢な経験だった。

Plastic Ono Band "John Lennon" の冒頭曲 "Mother"。
1970年リリース、ジョンのソロ1作目。
この曲(アルバム)の鋭さは、今も衰えていないと感じる。
リンゴ・スターのドラムス、クラウス・ボアマンのベース、ジョンのピアノ、始めに鳴る、鐘の音。全てが緻密に嵌っている。
彼は、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ、それぞれソロ作品も真面目に蒐集していた(特に70年代のアルバム)。
しかし、この一枚を、と訊くといつでも「ジョンの魂」(邦題)と即答したものだ。
私も異論はないが、他のアルバムも良いのにな、とは思っていた(実際、口にした)。

佐野元春「クリスマス・タイム・イン・ブルー」。
1985年リリースのシングル(12インチ)。
佐野さんのこの曲、アルバムが良い、という話は、彼から散々に聴いたが、この曲には、ある挿話があって、それは、彼が友達数人と家にいた時、やがて夜中になり、気が付いたら外は雪だった。
それ、というので家を出て、道を歩き出したのだそうだ。
その時、みんなで唄ったのがこの曲だった、という話。
彼が育った家は、大きな公園の近くにあって、傍には川も流れていた。
その場所に雪が降った時のBGMには、確かに、この曲は相応しい。
嘘じゃないぞ、と言っていた。

浜田省吾「片想い」。
1978年のアルバム「Illumination」収録曲。
シングル曲ではないのに、ずっと人気の高い曲だ。
私は浜田さんの曲を、良くないとは全く思わないが、集中して聴いたことがなかった(実は今でも、ない)のだが、ソロになる前のバンド「愛奴」のアルバムは持っていて、様々な感傷や感情をドライに表現するバンド、と感じていて、それは浜田さん自身のソロ・ワークスにも共通しているのかもしれない。
しかし、この曲は、彼の歌(歌唱)で憶えてしまった(実は今でも、歌える)。

夜が明けて、寝ずの番を終える前、最後にかけたのは、キング・クリムゾンだった。
彼は本当に熱心で真面目なクリムゾン、そしてリーダーであるリバート・フリップのファンで、何度も繰り返されるリマスター発売の度に、買うか、目をつぶるか、毎回真剣に悩んでいた。
このアルバムは、再結成第一次の作品群の2枚目(1982年リリース)で、黙殺されることの多い、この時期のクリムゾンの3枚の中でも、最もポップであり、無視される(無かったことにされる)最右翼作品だ。
しかし彼は、このアルバムをとても好んでいた。
相変わらず複雑な構成の曲であるのは変わらないが、このアルバムはメロディーがわかりやすく、同時にエイドリアン・ブリューの声質にも合う旋律だったのではないか。
私もこのアルバムは大好きだ。
ちなみに彼は、レコードやCDの保管も丁寧だった。
私が粗雑過ぎるのかもしれないが。

そして、最後にかけたのは、「太陽と戦慄 パートⅡ」。
1973年の同名アルバムの掉尾を飾る曲。
イントロが強烈だが、デヴィッド・クロスのヴァイオリンが誘導する中盤、ビル・ブルーフォード(昔は「ブラッフォード」と呼んでいた)のドラムスとジェイミー・ミューアのパーカッション、ジョン・ウェットンのエフェクトを効かせたベースが、岩同士のぶつかり合いのように続いていく終盤と、目を見張るプレイばかりなのに、7分19秒という短さ。驚くばかりだ。

彼の葬儀にクリムゾンの曲を、と考えれば、他にも選ぶべき曲はあるかもしれない。
しかし、私が思い出したのは、この曲のギターを、耳コピーだけで忠実に再現していた彼の姿だったのだ。
手首を上下させるようなストローク、あの太め(ごめん)の指からは想像できない、自在な動き。

熱心に、しかし、主張し過ぎないプレイヤーだった。

それはたぶん、彼と関わった殆どの人たちが感じることではないか、とも思った。


夜が明けて、外が明るくなり、斎場の前を走る自動車の音も賑やかになってきた。
彼は今日、この体を失うんだな、と突然思った。
病魔に侵されながらも頑張った、彼の心も凄いな、と素直に思った。
しかし、彼が亡くなったこと、彼の死は、彼のものだ、とも思った。
なんだか、急に、自分の背中や、首の回りが寂しくなった気がした。


長い、長い文章になってしまいました。
ここまでお読みいただいた皆さんに感謝します。
彼のことを、長く考え、思い出せる機会になりました。

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