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NHK特集「海辺にあった、町の病院」

東日本大震災から12年目となる、今年2023年3月11日の前後、関連したテレビ番組はその殆どがNHK、ETVのものだった。

特筆すべきは、3月11日に放送された、番組化まで12年目を必要としたとも思わされる、宮城県石巻市雄勝町にあった市立雄勝病院での津波被害者の遺族たちの言葉を伝えたNHKスペシャル「海辺にあった、町の病院〜震災12年 石巻市雄勝町」だと思う。

タイトルに「震災12年」とあるように、12年が経たないと表明できない声があるという事実は、とても重い。


番組は、病院の跡地に立つ慰霊碑を訪ねる人々の姿から始まる。

そこは美しい海を眺めることのできる、地域に大切な医療拠点だった。

3月11日14時46分、巨大地震が三階建の雄勝病院に及んだ46分後、建物屋上を超える津波が襲い、入院患者と付き添いの方、合わせて40人、職員24人もの方々が犠牲となり、救助隊に助けられたのは僅かに4人のみだった。

入院患者の殆どは高齢で、自力移動が困難であり、地震の時、院内の医師、看護師等の職員たちは、患者たちを屋上へ移そうと懸命に働くが、その屋上を含む建物全てを津波が覆い尽くした。


番組にはたくさんの遺族が登場する。

看護助手だった甥が亡くなった男性は「彼一人なら、裏山にすぐ逃げられた。でも、自分の目の前にいる動けない人から『助けてくれ』と言われたら、その人を助けようとするだろうし、それが人情だろう」と言う。

非番だったが、地震発生を受け、急ぎ病院に駆けつけ、患者を救助する中で亡くなった看護師の娘さんは、震災後に生まれた、自身の子どもに「もしも津波が来たら、とにかく逃げて」と教えているという。

放射線科の勤務医だった夫を亡くした女性は「夫は患者が好きだったから、懸命に救けようとしたのだろう。でも、職員であっても、自分の身に危険が及ぶような場合は、逃げて良いのではないか」と言う。


この番組での話ではないが、東日本大震災のとき、南三陸町の防災庁舎にいた町職員たちが津波で亡くなった。
彼等はギリギリまで、町民に避難を呼びかける放送をし続けた。

先日の記事にも書いたが、仙台市若林区でも市職員たちが車で避難を訴えている中、津波に遭った。

水門を閉めようと津波の迫る海岸に向かい、命を落とした消防団員の人たちも数多ある。

その人々が当時とった、正に文字どおりの、命懸けの行動に対して、私は「尊い」としっかり思う。

「しかし」と、この番組は静かに伝える。

それは、他人の命のために、自分の命を、どこまで懸けるのか、懸けるべきなのか、或いは、懸けなくてはならないのか、という問いだ。

この問いは、とても鋭利に刺々しく、心の深いところに食い込む。


私は過去、半ば公共の仕事に携わっていた経験があって、その地域は関東大震災、東京大空襲と甚大な被害を受けた場所だったし、私自身の家族の体験もあり、もしも災害が起きたら、誰かを救けるために行動するのは当然と考えていた。

だから、不謹慎だが、東日本大震災で亡くなった大勢の消防団員の人たち、役所の人たちに対しては、哀悼の気持ちを持ちながらも同時に、職務上、避けようのなかったことだ、とも思っていた。

そこには、どこまでも「自分は・私は」という主語、意思しか存在しない。


しかし、実際には遺族の中には「逃げてほしかった」と今でも念じている人もある。

つまり、「家族である・身近である私は」という主語も常に併存している。

それこそが災厄の生む事実だ、と気付かされた。

では今、これから、災害が起きたら、私はどう行動するのか?  誰かを救けに動くのか?  自分の身を守ることを優先すべきなのか?  誰かが差し出した手を掴むのか?  掴んだ後の危険を案じ?  手を伸ばさずにいられるのか?

わからない。わからなくなってしまう。


ただ、番組が伝えるように、この問いを表明するだけで、12年かかったのだ。

遺族の率直な、当たり前の感情、疑問を公とするには、これだけの長い時間を要したのだ。

私は、私たちは、この問いを、正面から受け止めなくてはならない、と思う。

番組は、元・雄勝病院の看護師たちが、慰霊碑の周りの草むしりをする姿で終わる。

彼女たちはただ黙々と作業をし、慰霊碑に向かって瞑目する。

複雑な感情に耐えながら、人生を送るために、かもしれない。

災厄は今も、たくさんの人たちに及んでいる、それが少しでも早く治るのを祈るしかない。

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