見出し画像

生の短さについて 読書記録14

人間の生は、全体を立派に活用すれば、十分に長く、偉大なことを完遂できるように潤沢に与えられている。しかし、生が浪費と不注意によっていたずらに流れ、いかなる善きことにも費やされないとき、畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。

多くの者は他人の幸運へのやっかみか、己の不運への嘆きで生を終始する。移り気で、あてどなくさまよい、自己への不満のくすぶる浮薄さに弄ばれ、これと決まった目的もないまま、何かを追い求めて次から次へと新たな計画を立てる者も多く、また、ある者は、進むべき道を決める確かな方針ももたず、懶惰に萎え、欠伸をしているうちに運命の不意打ちを食らう。そのさまを見聞きするにつけても、詩人中の最大の詩人の書に見える神託風の箴言が疑いもなく真であると、私は思わざるをえない。曰く、「生のごくわずかな部分にすぎぬ、われらが生きているのは」と。いかにも、その他の期間は、生ではなく、ただの時間にすぎない。

人は、誰か他人が自分の地所を占領しようとすれば、それを許さず、境界をめぐっていささかでも諍いが生じれば、石や武器に訴えてでも自分の地所を守ろうとするのである。ところが、自分の生となると、他人の侵入を許し、それどころか、自分の生の所有者となるかもしれない者をみずから招き入れさえする。自分の金を他人に分けてやりたいと望む人間など、どこを探してもいない。ところが、自分の生となると、誰も彼もが、何と多くの人に分け与えてやることであろう。財産を維持することでは吝嗇家でありながら、事、時間の消費となると、貪欲が立派なこととされる唯一の事柄であるにもかかわらず、途端にこれ以上はない浪費家に豹変してしまうのである。だから老人の集まりがあれば、その中の誰かをつかまえて、私はこう言ってやりたい。「あなたは人間の寿命の究極の年齢まで達し、百歳、あるいは、それ以上の年齢ももう間近のご様子。決算のために、さあ、あなたの生涯を振り返ってみられるとよい。計算するとどうなるだろう、あなたのその生涯のどれだけの時間が債権者に奪われ、どれだけの時間が細君との諍いや奴隷の懲戒や都中を駆けずりまわる役務に奪われたか。自業自得の病もこれに加え、活用されることなくむだに過ごした時間もこれに加えてみられるとよい。あなたの手許に残った年数があなたの計算よりも少ないことがお分かりになるはずだ。記憶をたどり、思い出してみられるとよい、いつあなたがしっかりした計画をもったことがあったか、一日があなたの意図したとおりに進捗した日が何日あったか、いつあなたがあなた自身を自由に使うことができたか、いつあなたの顔つきがふだんどおりの落ち着きを保っていたか、いつあなたの心に怯えがなかったか、これほど長い生涯にあなたがなした働きとは何であったか、あなたが何を失っているか気づかない間に、どれほど多くの人間があなたの生を奪い取っていったか、あなたの生のどれほど多くの時間を詮ない悲しみや愚かな喜び、貪欲な欲望や人との媚びへつらいの交わりが奪い去ったか、あなたがその生の中からどれほどわずかな時間しか自分のために残しておかなかったか。あれこれを思い出せば、(百歳になんなんとする)あなたが今、亡くなるとしても、あなたの死は夭逝だと悟られるであろう」と。では、その(生の浪費の)原因はどこにあるのであろう。誰もが永遠に生き続けると思って生き、己のはかなさが脳裏をよぎることもなく、すでにどれほど多くの時間が過ぎ去ってしまったか、気にもとめないからである。

誰かが白髪であるからといって、あるいは顔に皺があるからといって、その人が長生きしたと考える理由はない。彼は長く生きたのではなく、長くいただけのことなのだ。

私は、常々、人に時間を貸せと求める者がおり、求められるほうもいとも簡単に貸し与えてやる者がいるのを見て、驚きの念を禁じえない。時間が求められた目的は、どちらの眼中にもある。だが、時間そのものは、どちらの眼中にもない。まるで求められたものは無であり、与えられたものも無であるかのようにである。時間という何よりも貴重なものを弄んでいるのだ。彼らがそうした考え違いをするのも、時間というものが無形のものであり、目に見えないものであり、そのために、最も安価なもの、いや、それどころかほとんど無価値なものとさえみなされているからにほかならない。年金や施物なら、人はさも大切に受け取るし、それを貰うためには、みずからの労役や奉仕や勤勉を提供する。しかし、時間の価値を知る者は一人もいない。まるでただのものであるかのように、湯水のごとく時間を使う。だが、その同じ彼らが病の床に伏し、死の危機が間近に迫れば医者の膝にすがりつく姿を、あるいは、死罪の恐れがあれば全財産を使ってでも延命しようとする姿を見るがよい。彼らの心にある情緒の首尾一貫性のなさは、それほどに大きいものである。仮に、各自が過ぎ去った時間と同様に、自分に残された未来の時間をも眼前に思い浮かべることができるとして、自分に残された時間がわずかだと知れば、どれほど怯え、どれほど時間を惜しむことであろう。しかと、今という確実な時間なら、いかに僅少といえども、やりくりは容易である。いつ尽き果てるか知れないものは、常ならぬ注意深さで大切にしなければならないのである。

この本を読んだ今、「Time is money」という格言が嘘かもしれないと気づいた。死の直前に、たとえ100億円あったとしても時間を買うことはできない。「時間はお金と同じくらい大事」なのではなく「時間はお金よりも大事」という表現の方が正しい。もちろんお金が大事じゃないと言っているわけではなくて、お金以上に時間を大切に使ってたら自然とお金もついてくるということ。

「時間の使い方は、命の使い方」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?