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毎日noteを書くということ

気がついたら、noteをはじめて1ヶ月。
3日坊主のわたしが、30日坊主になった。

もともとメモ魔ではあったけれど。残されたメモは単語の羅列ばかり。あとで自分が見返しても首を傾げる状態だったりした。
それがnoteに変わっても、文章と呼ぶにはほど遠く、日本語の体をなしていない。

相変わらず文章を書くのは苦手で、書けと言われても、何も書けないのだけれど。
とりあえず、文法や句読点や「てにをは」などは気にせずに、思い浮かぶままに、何かを書くことにしている。(言葉あそびは嫌いじゃない。)

頭の中で、いつもごちゃごちゃ渋滞している言葉たちを、取り出して並べてみると。取り出した分だけ、頭の中がすっきりして。ほんの少しだけ、考えが落ち着くような気がする。

最近気がついたことは、同じ文章を書くのでも、自分だけの覚書として書くのと、誰かに向けて書くのとでは、心の在り方が変わってくるというのと。
どこかで区切りをつけて、外に送り出してやらないと、思いは堂々巡りになって。いつまでもそこで足踏みしていて。次のステップにはいけないということ。

文章は発信により、他者性を持ち、それまでとは全く違う意味を持つ。
下書きノートの中では、何度読み直しても、何度書き直しても、気づかなかったことに気づき。浮かばなかった言葉が浮かんでくる。
文章は何も変わっていない。変わったのはわたしの心だ。

そして、連想ゲームのように、次々に新たな思念が浮かんでくる。
記憶の扉が開かれて、思い出が次々よみがえってくる。
毎日何かを書いていたら、そのうちネタ切れになるかと思っていたけど。全くその心配はなさそうだ。(笑)

ただ、内容によっては、読み手と場所を選ぶ必要があったり、文章をきちんと練らないといけなかったりするから。気軽には公開できないこともあるし。
ワタシの文章力・表現力の乏しさが、いつも足を引っ張っているけれど。

現実的な話をすると、タイトル画像は全て自前なので、自分のgoogleフォトのフォルダの中から、適当な写真がみつけられなくて、放置されることも多かったりする。(たいていは、それっぽい写真トリミングと画像加工で適当にごまかしているけれど。)

思い出話が中心になってしまうのは、単に手軽だから。
頭の中に甦る記憶を、右から左へ移すように綴っている。
遥か昔の記憶は、おぼろげにかすんでいて、すでに他人事で。内容の推敲も適当で。思い出はネタの宝庫だ、なんて。面白がりながら書いている。

書けと言われると、一切言葉が浮かんでこなくなるし。
お題を見つけて、そのテーマで書こうとすると(書こうと思うと)一切筆が(タイプが)進まなくなるのは、おもしろいものだけど。
その時、浮かんだ言葉や、思い出を、脈絡なくつらつらと綴っている。

自分自身の備忘録として。想いの外部記憶装置として。
意外とnoteは便利だったりする。

noteが毎日応援してくれるので。
次は、90日坊主を目指してみることにした。

気まぐれに更新しています。