牧のひとり言「春田さん、やっぱり子供欲しいから別れようってなるんじゃないかな・・

 バスを降りて見上げた空には綺麗な満月が浮かんでいた。
 春田さんが「寒っ!」と言いながら俺の手を取った。冷えきった手が一瞬で温かくなる。冬の寒さもいいなあと思えるのはこんな時だ。
「ちず、やっぱ鉄平兄とマイマイが帰ってきたから、安心したよな。マイマイってマジ天使!」
 春田さんはそう言って、ホッとした笑顔を見せた。
「ほんと、そうですよね。せっかくの家族旅行を途中で切り上げて帰ってきたのに、少しも怒ってないどころか、あんなにちずさんを気づかって。昔から小姑鬼千匹って言いますけど、舞香さんは天使千人」
 俺の言葉に大きくうなずきながら、春田さんはつないだ手をぎゅっと握りしめた。
「一日保育、お疲れ!」
「春田さんこそお疲れ様」
 たった二日なのに、十日間休みなしで仕事したくらいの疲労感が体の奥の方に残っている。
 おおっぴらには言えないが、俺は昔から子供が好きじゃない。
 地球上にいる子供がみんな安全で飢えないで平和に暮らして欲しいと願っているが、正直子供は苦手だ。子供が欲しいと思ったことは一度もない。
「春田さん、さっき言いましたよね。今は牧と二人の生活を大切にしたいって。すごくホッとしました。吾郎君を預かって、子供欲しくなって、別れ話切り出されたらどうしようって、昨日からちょっと不安だったんですよ」
 「えっ!バッカじゃねえの!?」
 春田さんはつないだ手を離し、俺の両肩に手を置いて抱き寄せた。
「子供欲しいから別れるって、なんだよ!金欲しいから銀行襲うっていうくらいありえんわ。子供欲しいって思ったら、ちゃんと牧と話し合う。だけど今最高に幸せだから、これ以上何かを望むって、とりあえず今はない」
「自分の遺伝子、残したいとかって、思わないんですか?」
「思わねえよ。俺の遺伝子って、そんな価値ないじゃん」
「まあ、ディープインパクトとかキングカメハメハに比べれば百万分の一くらいですかね」
「種馬と比べんな。そりゃ、サラブレッドには負けるわ」
 俺の髪の中に手を入れてクシャクシャにした春田さんは、また手をつないでゆっくり歩き出した。
 「俺さあ、吾郎君預かってみて、どんなに子育てが大変かわかったよ。つうかさあ、三歳って怪獣じゃね?すっげえエネルギーで、アラフォーの身にはキッツイわ〜。子供の辞書に疲れってないの?」
「春田さんのことでっかい子供だと思ってましたけど、春田さんは植木倒さないし、部屋中に落書きもしないし、小麦粉ぶちまけたりもしないし、何食べたい?って訊いたらちゃんと食べられる物言うし」
「ウンコ連発しねえしな…って、おい! だけどちずってすげえよな〜。シングルマザーって、心から尊敬するわ。俺、一日で体重二キロくらい減った気がする」
「俺もです。だけど、今日、保育園に迎えに行って、公園で遊ばせて、吾郎君が疲れたって言うから抱っこしたんですけど、俺の腕の中で寝ちゃったんですよ。子供って寝てる時、超可愛い」
「んだな」
「夕食、何します?」
「ダンゴムシ」
「はいはい。で、何します?」
「牧のキス100回」
「はいはい。冷凍庫に豚肉あるから生姜焼きとか?」
「それ〜!!」
 春田さんは、頭の上で大きな丸を作った。そして俺の目をのぞきこみながら両手で俺の頬を包みこんだ。
「子供がいようがいなかろうが、俺たちはもう家族なんだから。サイコーに幸せな家族なんだから。なっ!」
 俺がゆっくりうなずくと、春田さんは手を放して、いきなり走り出した。
「どっちが早く家に着くか、競争!負けた方がゴミ出し!」
「ったくもう!」
 冷たい空気は澄んでいて、俺たちの靴音が高く響き渡った。子供みたいに全力で走る俺たちを、月が笑いながら見下ろしていた。


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