本当に俺と結婚していいんですか?

 「行け! 任せろ! フォー!!」
 栗林の言葉に背中を押されて、俺は残業途中で会社を飛び出した。明日は結婚式だというのに、まだ準備ができてない。ずっと仕事が立て込んでいて、式の打ち合わせにもいけなかったし、衣装合わせも遅刻したあげくにもめてしまった。
 俺の代わりに黒澤部長が式の打ち合わせに行ったというのは、正直ムナクソだが、文句は言えない。いくら仕事とはいえ、ドタキャンしたのは俺なんだから。
 春田さん、一人でウエルカムボード作ってるんだろうなあ。本当に申し訳ない。
 電車に飛び乗り、座席に座って荒い息を整えていたら、真向かいに座っていた若い女性二人の話し声が耳に入ってきた。どうやらこの二人は古い友人同士で、ポニーテールの女性は結婚間近らしい。「マリッジブルー」というワードに思わず耳がダンボになってしまった。
「それ、絶対マリッジブルーよ」
「マリッジブルー!?でも私ずっと彼と結婚したいって思ってたんだよ。やっと夢が叶うのに、なんでブルーになるわけ?」
「そういう人多いらしいよ。イライラするし、不安なんでしょう?」
「うん…。本当に結婚しても大丈夫なのかなって不安になる。もしかしたら何年か後に後悔するかもって…。今、新婚旅行でもめてるんだよ。私はパリのホテルの部屋からセーヌ川を見下ろして、愛してるよって言い合ったり、カナダに行って『赤毛のアン』に出てくる恋人の小径を彼と手をつないで歩きたいとかって思ってるのに、彼はオーストラリアに行ってグレートバリアリーフでダイビングやシュノーケリングとかしたいんだって。インドア派の私とアウトドア派の彼と、これからうまくやっていけるかなあって…。他にも小さなことが色々気になっちゃって。バカみたいだけど、この頃ふっと、映画みたいに誰か式場に現れて私を拉致(らち)してくれないかなあなんて妄想してしまうことがあるんだよ…私、どうかしてるよね」
 二人の会話を聞きながら、心臓がバクバクしてきた。
 俺がコタツでうたた寝してた時に、ちょうど帰ってきた春田さんが俺に毛布をかけながら「俺、マリッジブルーなんだって…。ごめんな、きついこと言って」とつぶいやいたのを聞いてしまった…。この頃春田さんがイラついているのはわかっていた。 俺が仕事忙しくて結婚準備をちゃんとできてないせいだと思っていたけど、春田さんはこの結婚に不安を感じてるのかもしれない。今目の前にいる女性みたいに、結婚して大丈夫だろうかって思ってるんじゃないかな…。
 俺達はことごとく違っている。大ざっぱで小さいことを気にしなくて、脳天気で散らかし魔の春田さんと、いろんなことに細かくて、神経質で完璧主義で掃除魔の俺。
 春田さんはみんなとキャンプに行ったり、ホームパーティーを開いたりするのが好きだけど、俺はどっちも苦手だ。そういう違いが積み重なって、脳天気な春田さんだっていつか心が離れて行くかも知れない。
 ざわざわと心が騒ぎ始め、電車の天井を見上げたその時ふと、初めて天空不動産で春田さんに出逢った日のことを思い出した。春田さんには言いたくないけど、多分一目惚れだったと思う。名前の通り春みたいな温かさが、全身から惜しみなくあふれていた。武川さんとの恋の破局から、それほど年月が経っていなかったこともあって、恋に尻込みしていた俺の心を、春田さんはあっという間に開いてしまった。
 本人は気づいてないだろうが、春田さんは人を無防備にしてしまう力がある。それはきっと春田さん自身が無防備で純粋で根っからの善人だからなんだろうな。ひねくれたところも、悲しい過去の傷跡も、何もないつるんとした透明な魂の持ち主で、その上、経験したことがないのに、悲しんでる人がいると、自分まで悲しくなる人でもある。そんな人はめったにいない。
 ちずさんと結婚した方が春田さんにとって幸せなんだと思って、一度は身を引いたけど、あの時は本当に辛かったなあ。まさか部長と同棲するなんて思ってもみなかった。こんなことになるなんてって何百回何千回後悔したか知れない。
 電車の中で老人に席を譲ったつもりが、元気一杯のおっさんがさっと座ってしまったような残念さを数千倍にしたような衝撃だった。
 春田さんと部長が結婚式を挙げると知ったときのショックと絶望は、思い出すたびに心臓がキュッと縮む。人生で絶望した瞬間のトップスリーに入る。もしかしたら堂々の第一位かもしれない。会社で聞いた時は表情を変えなかったけど、家に帰ってから号泣した。この先ずっとこの悲しみを抱いて生きるんだと思ったら、未来が怖くなった。
「春田さんがいない人生」
 口に出したら、世界が白とグレーと黒の三色だけになった。
 春田さんと部長の結婚式の日、川沿いの道を、苦い涙を飲み込みながら歩いていたら、真っ白いタキシード姿の春田さんが遠くから走って来た。まるでドラマみたいに。
「結婚してくださぁぁぁ〜い!!!」と春田さんが叫んだあの瞬間が、人生で一番幸せだった。
  飛び去った青い鳥が舞い戻って来たような、世界中の幸せが俺に集まって来たような、そんな気持ちだった。
スマホの中の二人で撮った写真を見返してみれば、どれも全部俺は本当に幸せそうだ。春田さんに出逢って、本当に良かった。
 バーベキューも、人を家に入れるのも嫌いだけど…たまになら、いいですよって言ってみようか。俺と結婚してよかったって春田さんが思ってくれるように、俺にできることはしてあげたい。全部は無理でも、できるだけ…。 バーベキューもホームパーティーも、年に二、三回なら、う〜ん、年一なら…。
 もうじっとしていられない。俺は立ち上がってドアの前に立った。駅についたら、家まで全速力で走ろう。そして春田さんに訊きたい。
「本当に俺と結婚していいんですか?」って……。
 俺は、これからもずっとずっと春田さんと一緒に歩いて行きたい。だけど、もし…もし…もしも春田さんが一瞬でも答えるのを躊躇(ちゅうちょ)したら…。春田さんの目の中に少しでも迷いが見えたら……。


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