台風とバービー人形

台風10号が近づいている。今までこんなにも台風を恐れたことはない。ニュースを見るたびに心臓がばくばくする。どうか大きな被害が出ませんように…。
一日中そのことばかり考えている。
 

 昔は台風というと、ろうそくやマッチ、おにぎりやちょっとしたお菓子も用意して「待ち構え」たものだ。大人たちはどことなくいつもと少し違って、少し緊張しているように見えた。6月から9月頃までは、夜でも縁側のガラス戸などを開け放して風を入れていたのだが、台風の時はもちろん雨戸を全部閉める。だから、家の中は黒く塗りつぶしたように真っ暗だった。
夜中、暴風が吹き荒れる恐ろしい音や窓ガラスを叩く雨の音、雨戸がガタピシと動く音を聞くのは恐ろしかった。家の中は暑かったはずだが、その記憶はない。最近の家のように密閉度が高くないこともあるが、そもそも気温が違う。
真夏でも三十度を超える日は滅多になかったと思うし、九月ともなればもっと気温は下がっていただろう。 
我が家はごく普通の平屋の木造家屋で、台風が去った後はどこかしら傷んでいた。瓦が飛んだり、木戸や塀が壊れたり、お風呂場のガラスが割れたり。雨漏りがしていたこともある。
台風が行ってしまった翌朝、雨戸を開けたら打って変わった晴天で、なんだか不思議な気持ちになったものだ。庭木は枝が折れたりしていたけれど、葉先から雫を滴らせる葉っぱは生き返ったように瑞々しかった。
大人たちは家を点検し、近くを見て回った後でやっと愁眉を開いた。そして朝の食卓はどことなくいつもと違っていた。私が物心ついた頃から不仲だった両親も、台風が去った朝だけは、軽い会話を交わしていたようだ。「電柱が倒れているから、あっちの道は通るな」とか「〇〇さんの家は大丈夫でしたかね」とか。
普段必要最小限の言葉をかわすのでさえ惜しんでいた両親も、台風が去った安堵で、どこか気持ちが高揚していたのかもしれない。考えてみたら、あの頃両親はまだ三十代だったのか…。

1959年、9月26日、紀伊半島に上陸した伊勢湾台風は、戦後最大の被害をもたらした。犠牲者はなんと五千人以上…。私は小学二年生だった。
 あの頃、まだテレビは一般家庭に普及しておらず、我が家にもテレビはなかった。情報を得るのはラジオか新聞くらいで、今のようにリアルタイムで現地の映像が届くわけではない。
 大人たちの話題は台風一色だった。大変なことが起こったらしいというのはなんとなく分かっていたけれど、八歳の子供にとって、それはなんの現実味もないものだった。
 あの日のことで鮮明な記憶が二つある。一つは広げられた新聞の写真で、そこには電車が写っていた。あれは何だったのだろうと、今日ふと思って「伊勢湾台風」でネット検索して見た。すると、台風で立ち往生した電車の白黒写真が出て来た。私が見た記事はおそらくこれなのだろう。
 もう一つは「人形」だ。私はその日友達の家に遊びに行っていた。電車の新聞記事はそこで見たのだ。畳の上に広げられた新聞と人形が、私の記憶の中に今もある。
 その人形は、私が持っているものとは全く違っていた。と言うより、他の誰のものとも違っていた。その頃、女の子が持っていた人形は、セルロイド製の「ミルク飲み人形」だった。おもちゃの哺乳瓶で実際に水を飲ませることができて、大きさは二十センチから三十センチくらい。形は新生児に似せたもので、二頭身か三頭身だった。
ところが、その友達が見せてくれたのは、体型は七等身か八等身のスマートな姿。もちろん赤ちゃんではない。髪も、カールしていた。
「お土産にもらったの」
 友達は自慢げに言った。でも私は少しも羨ましくなかった。ミルクも飲ませられないし、抱っこするには細すぎるし、つまらない…と思ったのだ。
 私は今日まであの人形を「リカちゃん人形」だと思い込んでいた。だけど、ついでにネット検索して見たら、リカちゃん人形はあの年にはまだ発売されていないことが分かった。そして見つけたのは「バービー人形」だ。アメリカで発売されたのは1959年3月。「お土産」と言っていたが、あれはアメリカ土産だったんじゃないだろうか。60年も前の想い出が少し塗り替えられてまた心の中に刻まれた。
 

 「台風」と聞いて私の心に浮かぶのは、電車の新聞記事と細い人形、そして朝の光が眩しく差し込む食卓での、いつもより少し機嫌の良い両親の顔だ。


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