おっさんずラブ 「オムツパートナー」

 武川さんのポストがめちゃくちゃ病んでいる。昼間も夜中もポストしてるけど、どれももれなく病んでいる。メンヘラ女子レベルの病み方だ。
ここまで病んでなかったら「うまい酒があるから家に取りに来い」という武川さんの誘いを断っただろう。外で飲むのではなく、家に行くというのはかなりハードルが高い。俺たちの想い出がたくさん詰まっているあの家に……。
 春田さんにその旨を連絡した時「武川さんのつぶやきが病んでるんですよね。一応元上司なんで話聞いてきます」と言ったが、元上司だからじゃない。元カレだからだ。
 愛し合って、傷つけあって、一時期人生を共有した人は、別れたからといってその他大勢の古い友人と同じような存在にはならない。人生の背景にはならないし、永遠に「少し気になる」存在だ。未練とかは全くないが、幸せでいて欲しい人なのだ。
 「上がれよ」
 懐かしい家の門の前で、出迎えた武川さんは言った。
「いやここで」と小さな抵抗をしたが、それは心の中の春田さんに対してのパフォーマンスみたいなものだった。家まで行って上がらないという選択肢はない。
 手土産のりんごゼリーを渡すと、武川さんは「いつまでもりんごゼリーを好きだと思うなよ」と言った。
「もう好きじゃないんですか?」
ちょっと驚いた俺に、武川さんは「好きだよ」と答えた。
 その言葉のあとに「お前のこともな」と声にならない声が聞こえたような気がした。
 部屋を見回すと、見覚えのあるイルカのキーフォルダーを見つけて驚いた。初めてのデートで八景島の水族館に行った時、遅刻してしまったお詫びに俺がおそろいでプレゼントしたものだ。
 武川さんには「徹夜でレポート書いてて寝坊した」と言ったけど、半分本当で半分嘘だ。
 初デートだからと気合を入れて、シャワーも念入りにして、着て行く服もめちゃくちゃ迷って、支度に二時間以上かかってしまったから遅れてしまったのだ。水族館に合わせて、ブルーのシャツを着ていったことを覚えている。
 水族館は初めてのデートにはぴったりだった。青い海と白い砂地とサンゴ礁を再現したアーチ水槽の下を歩きながら、俺は思っていた。これからずっと、一生この人と生きていくんだって。あの日のことはつい昨日のことのように細部まで覚えている。
 武川さんは、その日のスケジュールを完璧に頭に入れていて、何を見ても、どこを歩いても、俺の反応を注視していた。
 俺が楽しんでいるか、満足しているか、そればかり気にしているのがなんとなくわかった。だから俺はそれに応えようと、大げさに喜んで見せた。
帰り道、武川さんは「楽しかったか?」と俺に訊き、「ものすごく楽しかったです」と答えると、「そうか」とその日一番嬉しそうな笑顔を見せた。
 武川さんは楽しかっただろうか? 訊きたかったが、なんとなく口に出せなかった。
 振り返ってみると、武川さんと付き合っていた頃、俺はまだ発展途上人で、大人になりきれていない未熟な人間だった。武川さんは上司であり、先生であり、恋人で、いつも俺の前を歩いていたけど、彼だって若かった。今の春田さんより三つ四つ上なだけだ。つまらないことでよく衝突したし、傷つけ合った。どれもこれも些細なことで、原因なんかほとんど覚えていない。
 ぼんやりと昔を思い出している間に、武川さんが手早くつまみを作って、ビールをすすめてくれた。だけど自分は「家まで車で送ってやるから」と言ってほうじ茶しか飲まない。
 前から気になっていた「マッチングアプリ」に話を持っていくと、武川さんは暗い顔でポツリポツリと心の内を吐露(とろ)し始めた。
「人生の漠然とした不安がある。年をとったら誰が俺のオムツを替えてくれるんだろうとか、最期を看取ってくれるのは誰なんだろうとか。恋がしたいというより、老後も一緒に助け合えるようなオムツパートナーが欲しいのかもしれない」
 その言葉に、俺はショックを受けた。いつも俺の前を颯爽と歩いていた武川さんが、オムツの話をするなんて……。
 水族館の水中トンネルの中で、頭の上をイルカが悠々と泳ぐのを見て「すごいね」と顔を見合わせた時のことがまざまざと思い出されて、胸の中を鋭いものでかき回されているように痛かった。
 もし何かが違っていたなら、武川さんのオムツを替えるのは俺だったかもしれない。最期を看取るのも俺で、武川さんは俺の手を握ったまま「いい人生だった。ありがとう」とつぶやいて息を引き取る……。
 だけど、俺がお襁褓を替えるのは春田さんだ。春田さんの最期を看取るのも俺だ。俺と春田さんはオムツパートナーなんだ。
 武川さんに心優しいオムツパートナーが現れますようにと祈るような気持ちだった。
 幸せでいて欲しい。心からそう思う。俺の一番は春田さんだけど、武川さんも、俺にとって特別な人なのだ。これも「愛」と言えるのかもしれない。
 もし武川さんにオムツパートナーが現れず、孤独な老後をおくっていたら、春田さんは「俺たちでできることはなんでもやってあげようよ」と言い出すような気がする。
 春田さんはそういう人だ。そういう人がオムツパートナーで、本当によかった。
 静かに夜は更けて、夜気を斬るように庭の方から鹿威(ししおど)しの音が聞こえてきた。

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