ママの恋人

 ママの恋人の生田(いくた)さんは、誰が見てもイケメンだ。シュッとしていて礼儀正しいフェミニストって感じ。ママは生田さんより十七歳も年上だけど、五十六歳にしてはすごく綺麗で魅力的だ。しかも日本中に店舗を持つレストランの女社長でもある。
 パパが急死した時ママはまだ四十歳で、今まで本当に必死で働いてきた。会社経営に命をかけて自分の楽しみなんか少しも考えずに生きてきたのだ。外食産業の中でもトップクラスに入る店をパパなしで経営していかなければならなくなったから、家のことはお手伝いさんに任せて、ママは日本中を飛び回った。
 だけど少しでも時間があると私と遊んでくれたし、運動会や学芸会にはなんとか時間を作って来てくれた。
 私の二十歳の誕生日に、ママはこんなことを言った。
「立派な大人になってくれてありがとう。陽毬(ひまり)には、本当に申し訳ないことをしたと思ってる。パパが死んだ時、本当は会社をたたみたかった。でも従業員とその家族のことを思うと、どうしてもできなかったの。陽毬はまだ小さかったのに、一杯我慢させてごめんね」
 私も少しは我慢したけど、ママはず〜っと我慢ばかりしてきた。自分のことなんて二の次、三の次にして。そのママが、十六年ぶりに自分の幸せを考えているのだ。
 ママが生田さんと出会ったのは一年前。ママが経営しているお店で、彼は週四日ホールの係をしていた。あたりが柔らかくてイケメンだから彼目当ての客も少なくなかったらしい。
 ある日、その店で食事をしていた若い女性が喉に食べ物をつまらせてしまった。生田さんはすぐさまハイムリック法で喉に詰まったものを吐き出させたという。ちょうどその店に来ていたママは彼をねぎらい、喉に詰まらせた女の子を自分の車で送ってあげた。ママは生田さんを褒め称えて賞金を渡したそうだ。
 彼はそのお礼にと、ママに小さな絵をプレゼントした。それは聖母マリア様のような感じに描かれたママの絵だった。
 その絵は我が家の居間に飾ってあるけど、私には正直その良さがわからない。生田さんはプロの画家になるのが夢だと言っているけど、彼の絵はなんとなく少女漫画っぽくて、可愛いけど私は少しも心惹かれない。 
 だけどママは彼の絵を数枚買ってあげた。それも結構な値段で。そこから二人のおつきあいが始まったのだ。
 生田さんに出逢って、ママは突然花のように綺麗になった。いつもほとんどすっぴんに近い薄化粧だったのに、丁寧にお化粧をするようになったし、華やかなお洋服を着るようにもなった。白髪混じりのひっつめ髪を栗色に染めて緩やかなパーマをかけ、素敵なヘアスタイルになった。二人は、パッと見た感じはとてもお似合いだとは思う。だけど……だけど私は何かしっくりしないものを感じるのだ。
 彼は一応芸術家を名乗っているけれど、彼の絵はなんと言ったらいいのか……つまらない。見た瞬間に飽きてしまう。貧乏画家ということを、どこか売りにしている彼は、世の中の人が欲しがる名誉や富など全く興味がないというようなことを折に触れて言う。そしてママは、うっとりと彼の言葉を聞いてうなずくのだ。
 彼は一日も早くママと結婚したいと言っている。とにかく籍だけでも入れたいらしい。
「そういう形式にはこだわらないんじゃないんですか?」と訊いたら、
「もしママが病気になって、家族しか面会できないと言われたら、僕は会えないんだよ。そんなの悲しいだろう? それに、同じお墓に入りたいんだ。死んでもずっと一緒にいられるように。陽毬ちゃんは、まだ真剣な恋をしたことがないからわからないだろうけどね」と私の頬をチョンとつついた。
 私は確かに真剣な恋をしたことのない小娘だけど、なぜ生田さんはこんな小娘を時々じっと舐(な)めるような目で見るの?と、喉まで出かかった。
 彼はママがいる時といない時とで微妙に態度が違う。そういうところがものすごく気になるのだ。本音中の本音を言うと、私は生田さんが嫌いだ。もっとはっきり言うと、キモい。 
 だけど、そんなこと絶対にママには言えない。あんなに幸せそうなママを見たことがないから、水を差すようなことはしたくない。ママはもう私だけのママじゃなくなってしまったのだ。私は来年大学を卒業したら家を出て行くと決めている。  
 私はママにお願いした。
「もうすぐ卒業して家を出るから、二人きりで旅行がしたい」
 溺愛するサビ猫のルルも連れて行くつもりだったけど、ママが生田さんに預けようと言った。
「もともと猫が好きなんですってよ。ルルは全然なついてないけど、二人きりになったらきっとなつくと思う。生田さんは家族になるのだから仲良くなって欲しいのよ」
 私はそれに反対できなかった。ルルのためを考えるとそれが一番いいということもわかっている。ルルは動物病院に連れて行く時にはいつも玄関先でおしっこを漏らしてしまう。それくらいビビりだし、外に出るのが大嫌いなのだ。
「命にかけて、ルルちゃんを守る」
 生田さんがそう言ってくれたので、それを信じることにした。もうすぐ家族になるのだから一日も早く仲良くなってほしいのだ。
 万が一ルルに何か異常があったら、すぐにかかりつけの動物病院に連れて行ってくれるよう生田さんにくれぐれもお願いして、私とママは旅行に出かけた。行き先は京都。新幹線の中で、久しぶりに二人きりになってたくさんおしゃべりをした。もうすぐ名古屋に着くという時、ママは日頃の疲れが出たのか「ちょっとだけ寝るね」と言って、気絶するように寝てしまった。
 私は早速スマホを取り出してルルの様子をチェックした。外出する時はいつもペットカメラをセットしておくことにしているのだ。ルルはお気に入りのリビングのソファーに丸くなっている。
 するとそこに生田さんが現れて、ルルの隣に座った。そしてルルをつつきまわし、挙げ句の果てには「邪魔だよ」と言って乱暴に床に落とした。
 怒りに震えながら見ていると、ドアが開いて見知らぬ女性が入って来た。長い髪に緑色のメッシュを入れている二十代前半の若い女性だ。しかも、パンツ一枚でタオルを首にかけただけの格好で! そのタオルは日頃私とママが使っているものだ。気持ち悪くて吐きそうになった。あろうことか女はパッとタオルを放り投げて、生田さんとイチャイチャ始めた。
 私は迷いに迷った。これをママに見せるべきだろうか。ママはどんなに傷つくだろう。しかし、見せなければ、ママはもうすぐこんなクズ男と結婚してしまう!
 寝息を立てているママをそっと揺さぶると、ママはすぐに目を覚ましたけど、一瞬ここがどこだかわからないようだった。
 「ああ、夢を見てたわ。新幹線の中なのね」
 私は無言でスマホをママに渡した。
 「え? なあに? あら、生田さん?」
 最初は笑顔だったママの顔からみるみる血の気が引いていった。
「この女の子……覚えてる。うちのレストランで食べ物を喉につまらせた子よ」
 ママの瞳がガラス玉のように光を失い、その声は見知らぬ人のようだった。私はそのゆがんだ顔から思わず目をそらした。
 新幹線が名古屋駅に到着した。
「陽毬ちゃん、悪いけど旅行中止してもいい? 東京に引き返したい」
 私は黙って頷いた。

 私達が家の中に入ると、生田さんと女はダイニングルームでピザを食べていた。 
 二人はまるでお化けか何かを見たようにものすごく驚いた顔でそのまま固まってしまった。数秒後に生田さんが立ち上がって、ママに駆け寄った。
「誤解しないで! こ、この子はぼ、ぼ、僕の幼馴染みで、変な関係じゃないんだ」
 パンツ一枚の彼は世にも間抜けで滑稽だった。
 私は棚の上のペットカメラを指差して、
「あのカメラで全部録画されてるから嘘ついたって無駄。変な関係だってバレバレよ」
 ママは女に向かって「あなたはもう帰って」と言い、生田さんに「あっちで話しましょう」と、応接間の方に歩き出した。
 リビングでルルを抱きしめて待っていると、生田さんが出て来て私の方をチラリとも見ずに玄関に向かった。
 ママは家のクリーニングの専門会社に家中を掃除してもらう予約を入れてソファーに座り、ルルを膝にのせた。
「どうやら、彼はずっと前から彼女と付き合っていて、喉につまらせたのも芝居だったみたい」
「ひどい!ママをだましたんだね。結婚詐欺じゃないの?」
「まあ、そんなものね」
 ママはルルの背中を優しくなでた。
「あんたのおかげで助かったのよ。ありがとうね」
 傾いた陽の光がルルに当たって鮮やかなべっ甲色に輝いている。
 まるでいろんな事情がわかっているかのように、ルルはママの顔を見上げて「にゃ〜」と大きな声で鳴いた。
 ママは、その声に応えるように何度もうなずいたが、その横顔には微かな悲しみが影を落としている。
 だから私は卒業しても家を出ていかないと心に決めた。


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