非リアの獣医

「お兄ちゃん、お小遣いちょうだい」
 絵に描いたようなリア充の妹が仕事から帰ってクタクタな俺に手を出した。
「もう給料使い果たしたのか?」
「うん。今月は何かと物入りが多いんだもの」
「お前の物入りって、全部服かバッグだろ?」
「えへへ」
 財布から一万円札を三枚出して、その手にのせてやる。
「ありがと。稼ぎのいい兄貴を持ってほんと幸せ」
 明日香は拝むような仕草をしてさっさと自分の部屋に入って行った。
全く調子がいい奴だと思いながらも、俺は悪い気はしない。
 しっかり稼いで、六つ年下の妹と母親に贅沢をさせる。それは子供の頃からの夢だった。そしてとうとうそれは叶ったのだ。
 母子家庭で、昼夜働く母の苦労を見て育った妹は我慢強くて健気だった。
仲良しの女子達が、人気の子供ブランドの服を着ていても、一度も欲しいとねだらなかった。どんなにうらやましかっただろうと思うとかわいそうでたまらない。せめて明日香がいじけることなく、明るく元気に学校に行ってくれて、友達もたくさんいてよかった。心からそう思う。
 それにひきかえ俺ときたら、陰気で、ガリ勉で、友達もいなかった。あえて作らなかったのだ。もし友達ができたらカラオケやマックに誘われる。俺にはそんなことに使える金などなかった。
 学生時代を振り返っても、何一つ楽しかった思い出なんかない。
 嫌な思い出ならたくさんある。いとこのおさがりを着て、いとこのおさがりのかなり傷んだランドセルを使っている陰気臭い俺を、執拗にいじめてくる女子がいた。
 不運なことに小中高の半分は同じクラスで、その女子久山恵梨香は、自分の子分みたいな女子と一緒に、いちいちからんできて、悪口を言ったり、俺の顔をみるとわざとらしくくすくす笑ったりした。
 高三の時、俺は特別クラスに入ったので、ほとんど接触はなかったが、廊下ですれ違ったりすると、必ず「ダサっ」とか「臭っ」とか、小さな声でつぶやいた。
 そんな悪口に言い返すほど幼稚じゃなかったが、内心ではハラワタが煮えるくらい気分が悪かった。
 彼女の妹は恵梨香と同じ学年だったが、明日香はその子と普通に仲良くしていたようだ。妹は姉に似ず、意地悪ではなかったらしい。
 
「お兄ちゃん、久山恵梨香って覚えてる?」
 風呂から上がった俺を待ち受けていた明日香にいきなり訊かれて、心臓が跳ね上がった。どうやらまだトラウマが完全には消えていないようだ。
「…誰?」
「お兄ちゃんと小中高で同じだった人よ。玲菜のお姉ちゃん」
「…ああ、いたような気もするけど…」
「え〜、その程度なの?今日お兄ちゃん、会ってるんだよ。さっき玲菜からLINEきたの。最近連絡取ってなかったんだけどね。一年以上ぶりに」
「へえ…」
「今日チワワ連れてきた人、覚えてない? チョコっていう名前のチワワ」
「俺が担当してないから、わからないな」
 他の医師が担当してくれて本当に良かったと、心から思った。
「お兄ちゃんに興味津々らしいよ。お兄ちゃん今36才だから18年くらい会ってないんだよね。昔と違ってすごくカッコ良くなったって言ってたんだって。まだ独身なら四人で会う機会を作って欲しいってさ。どうする?」
「断ってくれ。彼女がいるとかなんとか適当に言って」
 あんな関係だったのに、よくもそんなことが言えるものだ。よくよく俺をなめているとしか思えない。小中高のカーストが今でも通用すると思っているのだろうか。
「残念がるだろうな。お兄ちゃんの病院がすごく流行ってるのを知ってるから、必死みたい」
 俺が経営している動物病院は、開業して7年目だが、都内でもトップスリーに入る人気病院だ。常勤の獣医師は俺を含めて3人。それでも平均一時間半待ちだ。
 良心的な料金で薄利多売といった経営だが、純利益は毎月相当な額になる。
 豪邸も建てた。来年分院も開業する。
 仕事は順調だが、人生でまだ「彼女」がいたことはない。だけど気になっている人はいる。
 保護猫のNPO団体でボランティアをしている春川さんだ。彼女とは小中一緒で、久山恵梨香が俺をいつものようにからかっていた時に、「そんなこと言うのやめなよ」と止めてくれたことがある。中学2年の時だ。おかげで春川さんが近くにいる時は嫌なことを言われなくなった。
 誰よりも優しくて、一見美少年風の彼女のことはずっと心に残っていた。たぶんあれが初恋だったのだ。
 だからある日、彼女が病院に現れた時には狼狽してしまった。
 昔と同じようにボーイッシュで、職業は救命士だという。休みの日にボランティアを入れているというのもいかにも彼女らしい。
 とにかく猫が大好きで、自分のことを「猫の下僕」と呼んでいる。
 俺があの「いじめられっ子」だと知って、とても驚いていた。
 「黒澤君とは、小学校の時、一緒に生きもの係したよね。黒澤君が一生懸命お世話してたの覚えてるよ。ぴったりの仕事選んだんだね」
「春川さんも、救命士ぴったりだね。世のため人のための仕事をしそうだったよ。昔から」
「え〜、嬉しいなあ。ありがとう」
 そんな会話があって、その時は別れたが、あれから何度も保護猫を連れてきているので距離は少しずつ近くなっている。つい最近は春川さんの愛猫のココちゃんの胃腸炎を治したばかりだ。
 かなり重い症状だったので、俺は病院に泊まり込んで治療にあたった。翌日朝一でやってきた春川さんは、受付で「院長先生が徹夜で治療されたみたいですよ」とこっそり教えられたそうで、帰る時泣きながら俺の手を握った。
 「黒澤君、このご恩は一生忘れない」
 彼女の手はガサガサしていて、いかにも「働き者の手」という感じだった。そしてとても温かかった。
「お兄ちゃん、断っていいんだね。玲菜のお姉ちゃんと会うの」
 明日香が訊いた。
「もちろん。美人で優しい最高の彼女がいるって言っといてくれよ」
「わかった。実は私、玲菜のお姉ちゃん、昔から好きじゃなかったから嬉しい。あの人が義理の姉になるのは絶対嫌だもん」
 明日香はブルっと震える真似をしてテレビのスイッチを入れた。
 今度春川さんが俺の病院に来たら、勇気を出して夕食に誘ってみようかな。
 何かが始まるようなそんな予感がして、俺は口笛を吹きながら階段を上がった。

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