少年院の想い出

今から六十年も前のことだ。父は法務省の役人だったが、本省にいた期間は短くて、勤務先は主に全国の少年院や鑑別所だった。
私が七歳の時、父は少年院に務めていて、私たち家族は広い敷地内の官舎に住んでいた。今でもその家の全てが記憶の中に鮮やかに残っている。玄関を上がると三畳くらいの畳敷きのスペースがあって、そこを左に折れると六畳の和室、その先の台所は一段低くてレンガの二倍くらいの氷を入れて冷やす木製の冷蔵庫があった。氷は氷屋さんが毎日届けてくれていたように思う。
少年院の敷地はとても広くて、どこからどこまでが所有地だったのか、わからない。池や畑があり、私たちが住んでいた官舎の裏は小高い山だった。刑務所のような高い塀などの囲いはなく、しょっちゅう生徒さん(我が家では少年院にいる少年達をそう呼んでいた)が逃げて、大きなサイレンが鳴り響いた。そのサイレン音は日常の中に溶け込んでいたので緊迫感など全くなかった。
「あら、また逃走したのね」とか「今日は山狩りだって」と母はケロリとしたものだった。坊主頭で、グレーのごわごわした服を着た少年は、一目で少年院の生徒だとわかるからすぐ捕まるのに、それでも少年たちはよく逃げた。逃走中の生徒さんと鉢合わせすることがあっても、私は少しも怖くなかった。私にとって「生徒さん」は皆ただの「お兄ちゃん」だったのだ。もちろん子供ながらに、彼らが何か悪さをしたらしいということくらいは知っていた。凶悪な犯罪を犯した少年もいた。それでも、あの頃はなんの恐怖心も持っていなかったのだから呑気なものだ。
今はどうなのかわからないが、その少年院では生徒さんと職員の家族が接する機会がたくさんあった。畑仕事をする少年達のそばで子供達は普通に遊んでいたし、人懐っこい私は「お兄ちゃん、石蹴りしよう」などと誘って遊びの輪の中に引っ張り込んだリもした。もちろんすぐそばには監視役の教官がいたのだが、畑仕事を中断させても何も言わなかった。今では考えられないことだろう。父はどちらかといえばエリートで出世が早く、私が物心ついた頃には役職についていたので、そのせいだったのかもしれない。「お嬢ちゃんがしたいことは何でもしてやれ」なんぞと生徒さんに言っていたくらいだ。
 中でも特に私が懐いていた少年が一人いた。名前は覚えていないが、ほっそりとした優しげな顔立ちの少年で、私を妹のように可愛がってくれた記憶がある。母の話によると、なんでもその子はとてもお金持ちのおぼっちゃまで、父親の再婚相手と折り合いが悪く非行に走ってしまったのだという。母が「あの子の家には〇〇も〇〇もあるらしいよ」と羨ましげに話していたことを覚えている。その〇〇がなんだったかは忘れてしまったが、多分その頃庶民の憧れの家電製品と車だったような気がする。
それにしても、なぜその子の家の状況がわかったのか不思議でたまらない。父は寡黙で仕事の内容など家で話すような人ではなかった。ましてや少年の家にある家電製品など知っているはずもない。大昔の話だし、田舎だったから、少年院に入った子の個人情報があっという間に広がったのだろうか。
その子のことで深く記憶に刻まれた思い出がある。ある日、我が家の庭の手入れをしに五、六人の生徒さんがやって来た。手入れと言っても、雑草を抜いたり、落ち葉をかき集めたり、壊れた垣根を直したり、簡単な仕事だ。私は濡れ縁に座ってその作業を見ていた。小一時間ほどして作業が終わると、母がお盆にたくさんの餡ころ餅をのせて庭に出て来た。ちょっとした作業をしに生徒さんが官舎に来ると、終わった時に必ずおやつを出すことになっていたのだ。生徒さん達の嬉しそうな顔が今でもまぶたの中に残っている。育ち盛りの少年達にとって、それはどんなに大きな楽しみだっただろう。彼らが庭のあちこちに座って美味しそうにお餅を食べているのを私は幸せな気持ちで見ていた。皆が食べ終わると、教官が全員を並ばせ、一人ずつボディーチェックを始めた。両腕を飛行機みたいに横に広げさせてパンパンと体を叩くのだ。何かを盗んだりしていないかを調べるためなのだろう。最後にチェックを受けたのは、私が大好きだったお兄ちゃんだった。彼は横に両腕を上げた状態で私と目が合った瞬間、顔がみるみる真っ赤になってパッと目を伏せた。
「ああ、見なければよかった。お兄ちゃんはすごく恥ずかしかったんだ」
 私はすごく悲しくて、お兄ちゃんが可哀想でたまらなかった。
 それからしばらく経ったある日、小学校から帰って来た私を、お兄ちゃんが坂の上にある畑の上から見つけて名前を呼んだ。風が冷たかったから晩秋だったと思う。私はランドセルをカタカタ鳴らしながら坂道を走った。お兄ちゃんの顔ははっきりと見えなかった。西に傾いた陽を背中に受けて、影絵のようなシルエットになっていたのだ。
「おかえり〜。今日はもう仕事が終わったから一緒に遊べないよ。ばいばい」
 お兄ちゃんはそう言って手を降った。
 そして翌日か翌々日、お兄ちゃんが少年院を退院したと聞いた。さよならも言わずに突然いなくなってしまったことがとても寂しかった。
 
 それから数ヶ月後、確か学校帰りに歯医者さんに寄った時だったと思う。街に一軒だけあった歯医者さんは、少年院からバス停で三つ四つ離れた賑やかな通りにあった。私は口の中に広がる消毒薬か何かの苦さに顔をしかめながら歩いていた。その時、通りの向こうに懐かしい顔を見つけた。あの優しいお兄ちゃんだった。ちらりとその姿が目の端に映った瞬間、私は脱兎のごとく走って逃げ去った。背中のランドセルの中の本や筆箱が暴れまわって賑やかな音を立てた。その音に混じって私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。だけど、私は一度も振り返らずバス停まで全力で走った。
我が家では「してはいけないこと」というのがいくつかあった。その一つが「少年院の生徒さんが退院した後に、街でばったり出会っても、絶対に声をかけてはいけない」というルールだった。もし本人がまわりの人に隠していた場合、声をかけたことで、とても困ることになるかもしれない。だから忘れてあげることが一番いいことなのだと教えられた。
その時の一瞬の出会いが、お兄ちゃんの姿を見た最後になった。翌年の三月、父が北海道に転勤になったのだ。再びその少年院がある地を訪れたのは、長い長い年月が経った後だった。
あの日のことを思い出すと、心に浮かぶのは、走り去る私の後ろ姿をお兄ちゃんが寂しげな顔で見つめている映像だ。顔を見てもいないのに、なぜ心にはそう映るのだろう。
お兄ちゃんはもう八十歳くらいになっているはず。私は一年に何回か思い出すけれど、お兄ちゃんは私のことを覚えているだろうか。

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