美しき愛人

 「愛人」という立場の女性に、人生で何度か出逢っている。
最初の出逢いは十九の時。高校を卒業して、絨毯やカーテンを扱う小さな会社に就職した私は、親元を離れて一人暮らしを始めた。家賃一万円の私の城は、六畳一間、風呂なし、トイレは共同。小さな流し台が付いていたが、ガス台も給湯器もなく、電気コンロが一つだけ。それでも見知らぬ土地でスタートした新しい生活は何もかもが新鮮で楽しかった。
会社に行く途中に小さな美容室を見つけて、ドキドキしながら入って行った日のことを今でも覚えている。そもそも美容室なんて、それまで滅多に行ったことがなかった。高校はパーマ禁止だったし、お金もなかった。
最初のお給料(確か三万円だった)をもらってすぐに、その美容室のドアをそっと開けた。
椅子が三つ並んでいて、お店の人は二人。一人は多分四十代後半で、もう一人は十七、八の少女。年上の方の女性が「いらっしゃいませ」と言ってにっこり微笑んだ。色白で明るい色に染めたショートカットの髪がよく似合っていた。
二、三人いたお客さんが皆帰り、私だけになると、お客さんから先生と呼ばれていたその人がいろいろ話しかけてきて、カットとパーマが終わっても私を引き止めた。
そのお店の奥にはカーテンだけで仕切られている四畳半ほどの部屋があった。お店のフロアより一段高いその部屋には、真ん中にちゃぶ台があり、小さな流し台がついていた。
先生はその部屋でお茶とお菓子を出してくれて、そこでひとしきりおしゃべりをした。初めて会ったのに、まるで親戚のおばさんのようだった。先生は青森から上京してお店を出した苦労人なので、親元から離れて一人暮らしを始めた私と自分を重ねていたのかもしれない。その日を境に私はその美容室に入りびたるようになった。
ある日、いつものように美容室に行き、奥の部屋に入ると、先客がいた。
私はその人を見た瞬間、ハッと息を飲んだ。紹介されたA子さんは、三十少し手前くらいの絶世の美女だった。物言いも柔らかく上品で、心身共に尖ったところや硬いところがない、とても女性的な人だった。私は会ってすぐに大好きになり、A子さんも、私を妹のように可愛がってくれた。だけど、A子さんは、自分のことをあまり語りたがらない人だった。どことなく寂しげな影があって、大笑いすることも、ふざけることもない。時々、ぼんやりと宙を見ていることがあった。
A子さんは一人暮らしで、友達もいないようだった。仕事もしていないらしく、しょっちゅう美容室に遊びに来て、何をするでもなくただそこにいた。
ある日、先生がこっそり教えてくれた。
「A子ちゃん、お妾さんなのよ。お金持ちの愛人。元は高級クラブのホステスさんだったんだよ。美人だからそのパトロンさんが心配して外に出したくないみたいで、ほとんど外出もできない。ここに来た時しか人と話すこともないんだよ」
清らかな色気とでも言ったらいいのか、少しけだるそうな様子や、何をしているのか全く日常が見えないミステリアスな雰囲気や、どことなく不幸せな表情も、「愛人」という一言でからまった紐がほどけるように納得がいった。
A子さんが身につけているものはとてもセンスが良く、普段着でも高級感があった。持ち物も全て「お金がかかってる」と感じられる物ばかり。だけど、そういう物に対して、少しも執着がなさそうに見えたし、もちろん自慢など全くしなかった。
ある時A子さんが、私が会社の先輩の結婚式に出席するという時に「これ着て行って」とワンピースを貸してくれた。それは、森英恵のオートクチュールだった。
ミニ丈のフレアースカートに透ける袖がついたそれはそれは美しいワンピース。今でもあの柄をはっきり覚えている。白い生地の上に重ねた透ける布には、青い蝶々が描かれていた。肩先から袖口にかけてゆったりと広がった袖はその透ける布だけが使ってあって、私の動きに合わせて優雅に揺れた。
その一着が、私のひと月分のお給料の何倍(何十倍?)もすると、美容室の先生から聞いて腰が抜けそうになった。
「森英恵の服はたくさんあるから、いつでも貸してあげるよ」と言われたが、その一着が最初で最後で、二度と借りることはなかった。私のような若くて貧しい小娘には、そんな高いブランドの服を着て行く機会なんか巡ってこなかったのだ。
私があの町に住んでいたのは短かかった。会社を辞めると同時に遠くに引っ越してしまったので、それきり美容室にも行くことはなかった。
「そのうち会いに行こう」と思いながら、気づいたら長い年月が経ってしまった。若い頃は「そのうち」というものがいつまでも待っていてくれると思っていた。「そのうち」が、永遠に消えてしまう日が来るなんて思わない。「そのうち」は、いつだって手がとどくところにあると、無邪気に信じていた。人も街もずっと同じで、昨日と同じ明日が永久に続くのだと…。
あの日から、五十年…。もうあの美容室はないだろう。先生がご存命なら、百歳近い。A子さんも後期高齢者だ。どんな人生を送られただろう。今、お幸せだろうか…。
A子さんを想いながら目をつぶると、鮮やかな青い蝶々がまぶたの中で、ひらひらひらひらと、高く低く舞う。


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