本当の叶人

第九章

 「先輩、本当に申し訳ありません!」
 犬養がこんなにもしおれている姿を見たのは初めてだった。大事なクライアント二社に対してダブルブッキングをしてしまったのだ。日時は明日の午前中の十時。両方とも重要なオリエンテーションで多くの人間の予定をやっと合わせてのことだった。
「いや、君だけの責任じゃない。僕も気づかなかったんだ。ちゃんとチェックしなければならなかったのに……」
 秋臣は、最近仕事が身に入ってない自覚はあった。気づけばつい叶人のこと考えて手が止まることもしばしばで、こんな風にプライベートが仕事に影響したのは初めてだ。離婚した直後さえもこんなことはなかった。自分の不甲斐なさに心底腹が立った。
「僕もすぐに担当に連絡を入れておくから、君は手土産を持って謝罪してきなさい。メールや電話じゃダメだよ」
 幸いダブルブッキングした二社のうちの一社は、秋臣が長年親しくしてるところで、プライベートな話までできる仲だ。
 犬養が部屋を飛び出して行くと、秋臣はクライアントに電話をかけ、今回のダブルブッキングの件を誠心誠意謝罪した。相手は親しい関係でもあるので、快く許してくれたが、自責の念は少しも軽くならない。
 電話を切った後、秋臣はパソコンを開き、深々とため息をついた。
キーを叩く音だけが聞こえる部屋に着信音が響いた。スマホを開いた秋臣は画面に「凪叶人君」の文字を見てどきりとした。
「どうした?」
「俺だけど、今会社の近くのスターチスっていうカフェにいるんだけど…会えないかな? 五分でもいいからさ」
いつになく思いつめた声に心臓が早鐘を打ち始めた。秋臣は部屋を飛び出し、エレベーターの前まで走ってボタンを連打する。
 叶人はもう「役」を降りたいと言いに来たのかもしれない。思い当たる一番のことはそれだった。あんなことがあった後で、同じ家に暮らしていて気まずいのは当たり前だ。そもそも夏休みの間だけいるという設定なのだから、アメリカに帰らなければいけない時期でもある。それがほんの少し早まるだけなのだ。叶人がここで終わりにしたいと言えば引き止める理由などない。引き止めてはいけないのだ。
 秋臣は自分に言い聞かせ言い聞かせしながらカフェのドアを押し開けた。一番奥の、斜めから西陽が差し込む窓辺の席に叶人は座っていた。秋臣が入ってきたことに気づかず、街路灯がつき始めた暮れ惑う街をぼんやりと見ている。
「待たせたね。何か急用?」
 秋臣の声かけに、叶人は夢から覚めたようにはっと顔を上げた。
「たいした用事じゃないんだけど……家だと話しづらいから」
「そう……。あ、お腹空いてない? 夕飯まだだろう?」
「うん」
「何か頼んだら」
 叶人は何も言わずにアイスコーヒーのカップに覆いかぶさるようにして、両肘をテーブルに寝かせたままストローを口にくわえた。どこか落ち着かない様子で上の空だ。やはり想像していた通りの理由で自分を訪ねてきたに違いない。秋臣は心の中で覚悟を決めた。
「話って……」
「今日最後の稽古日だったんだ。明日が初日。『わが町』っていう外国の戯曲をモチーフにした舞台で……」
「ああ、ワイルダーの」
「で……、頼みがあるんだけど……」
 いよいよかと、秋臣は背筋をすっと伸ばした。
「おばあちゃんと一緒に明後日土曜の昼の部を観に来てくんないかな。ダブルキャストで、俺が舞台に上がるのはその一回だけなんだ」
 ピンと張り詰めた緊張が一気に弛(ゆる)み、全身から力が抜けて椅子の背にどさりと体を預けた。しかし、次の瞬間には安堵が不安に変わった。舞台を母に見せるということは、智夏ではなく凪叶人として母の前に立つことだ。嘘がバレずにそんなことができるだろうか。
 その反応を叶人は予想していたらしく「わかってるよ」と投げ捨てるように言った。
「こんなの契約違反だってわかってるけど、何もかも全部嘘っていうのが嫌なんだよ」
 いつになく瞳には力が宿り、切羽詰まった真剣さが身体中から溢れている。
「理由はちゃんと考えるから。遊び半分でオーディション受けたら受かったとか、なんとか」
 秋臣は代役まで立てて母を騙してきたことが最後の最後でバレる危険を犯す勇気がどうしても出なかった。しかし、叶人の真剣な思いも伝わってくる。完全な板挟み状態で腕を組んだまま押し黙った。
 叶人は思いつめた目で、秋臣を見つめていたが、突然テーブルに頭がつきそうなほど深々と頭を下げた。
「お願いします!」
 思いがけない行動に、秋臣は唖然として声も出ない。
「どうしてもどうしてもおばあちゃんに、舞台を観てもらいたいんだ。一度でいいからおばあちゃんに本当の俺を見て欲しい」
 ぬぐい去れない不安と、これほどまで一途に思い詰めている叶人の願いを叶えたい気持ちとが交錯して、秋臣の心は揺れに揺れた。そしてとうとう負けてしまった。
「わかった」
「えっ?」
 叶人は大きく目を見開き、秋臣の視線を外さずにじっと見つめた。
「い、いいの?」
「わかっていると思うけど、くれぐれも気をつけて」
 叶人のこわばっていた表情がかすかに崩れ、頬が桜色の紅をさしたように紅潮した。
「ありがとう……」
 感極まった顔で両手をテーブルにつき、静かに頭を下げた姿に、秋臣の不安は霧が晴れるように消えて行く。代わりに、本物の叶人を見たいという想いが胸の奥からふつふつと沸き上がってきた。

 舞台当日、車での移動も合わせると五、六時間の外出になることが心配だったが、寿美子はいつになく元気そうだ。
「夏期講座で知り合った学生に誘われてオーディションを受けたら受かってしまった。面白そうだからやってみる」
 叶人が舞台に立つ理由を説明すると、寿美子は何も疑わずすんなり信じた。開幕は二時だというのに、朝食もそこそこに着ていく服やバッグを用意し始めた。そのいそいそとした様子に、秋臣の心も浮き立ってくる。不安が消えたわけではないが、役者としての叶人を見るのが楽しみでたまらない。今まで見たことのない彼を知ることができるのだと、緊張と期待で胸が震えた。

 客席数が八十くらいの小さな地下の劇場は空席が目立ち、少しカビ臭いような匂いがした。客のほとんどは二十代くらいの若者だ。
ブザーが鳴って幕が上がった。舞台には椅子が七脚並んでいる。「わが町」と同じく墓場の設定なのだろう。左の端に座っている叶人は普段着ている服と変わらないTシャツとデニム姿だ。
「母さん、あの椅子はお墓だよ」
秋臣が耳打ちすると寿美子は舞台に目をやったまま「じゃあ智夏君は幽霊?」と聞き返した。
「うん、たぶん死者の役だね」
 秋臣は学生時代に友人に誘われて「わが町」の舞台を一度観ている。世界中で上演され続けピューリッツァー賞も受賞している有名な作品を観ておくのも教養の一つになるくらいの軽い気持ちだった。あの時、この芝居は二十歳の心には何も届かなかったことを秋臣ははっきりと覚えている。死者が人生の後悔や無念を語り、舞台上から人生の意味を問いかけるのだが、夏の日の微風のように肌の上を滑っていくだけだった。あの頃は老いも死も人生の儚さもファンタジーで、今日と同じ明日が永遠に続くと漠然と信じていたのだ。その愚かさと未熟さが今の秋臣には妬(ねた)ましかった。
 舞台が始まって三十分くらい、椅子に座ったままだった叶人が立ち上がり、顔をあげて虚空の一点を見つめた。
「生きている間は人生の素晴らしさに気づかなかった。朝起きて太陽を浴びることも、家族や友人とたあいない話をすることも、電車に揺られることも、コーヒーを飲むことも、星に見守られて眠ることも、なんて幸せなことだったんだろう。俺はそれがどんなに奇跡のように幸せなことだったか気づかないまま淡々と生きて、死んでしまった」
 食い入るように叶人を見つめる母の隣で、秋臣は言葉にできない感動を覚えていた。舞台の上にいる「役者」は、彼が知る叶人ではなかった。その生き生きとした表情も強い眼差しも、初めて見る叶人だった。
 秋臣はやっと本当の凪叶人に出逢えた気がした。
 そこへ黒い服を着た女が現れ、叶人の前に花束をそっと置いた。
「愛してたわ。あなたを一生忘れない」
よろめきながら舞台袖に走り込む女を目で追いながら叶人は両手で胸を押さえた。そして正面に向き直ると悲しげな顔でつぶやいた。
 「愛してるよ。俺もずっと忘れない」
その時、叶人が一瞬自分を見つめたような気がして秋臣はうろたえた。しかしその後、一秒も目を離さずに彼を注視したが、二度と視線が交わることはなかった。

「智夏君、あなたは俳優になる気はないの?」
 夕食のテーブルに着くなり、寿美子は言った。その頬は数時間前に観た舞台の興奮が残っているかのように薄紅色に染まっている。
叶人は目を丸くして寿美子と秋臣を交互に見た。
「えっ! ど、どうして」
「だってあなた、キラキラ輝いてたもの。幸せそうだったもの」
 叶人はまさか寿美子の口からこんなことを聞くとは想像もしていなかったのだろう。かなり困惑しているようだ。 
「でも、でも……」
 言い淀む叶人は、幼い子供が悪いことをしたのを打ち明けられずにいるような顔をしている。 
「おばあちゃんは僕が役者の道に進んだら嫌なんじゃないの? 犬養さんや父さんみたいに有名な大学に行って一流企業に勤めて欲しいでしょう? 役者なんて食べていける人はほんの一握りだから結婚だって難しいかもしれないよ」
「あなたが幸せなら、それでいいの」
 肉の薄い手をそっと伸ばして、寿美子は叶人の手を握りしめた。
「大学なんか行かなくてもいいわ。一流企業じゃなくたって、あなたがしたい仕事なら何でもいい。もし結婚しなくて一生独身でも、あなたが幸せならいいのよ。でももし誰かと家庭を築くなら、心から愛する人とであって欲しいわ。あなたのお相手に望むのは、あなたを愛してくれることだけ。どんな人だってかまわない」
 湖水にさざ波が立つように、寿美子の顔に笑みが広がっていった。その瞳が叶人からゆっくりと秋臣に移り、まるで時が止まったかのような不思議な時間が流れた。
 叶人がふいに立ち上がってくるりと背を向け、冷蔵庫を開けた。
「今日のデザートは豊水梨だよ」
 そのぶっきら棒な物言いは智夏ではなく叶人だった。その頬に涙がつたって落ちるのを、秋臣は見逃さなかった。
叶人が泣いている…。
 秋臣の瞼にも涙が盛り上がってきた。母に気付かれることを恐れて横を向いたが、寿美子は無邪気な笑顔を叶人に向けた。
「あら、もう梨が?早いわね」
「うん。初ものだって」
 振り返った叶人の顔はもう智夏に戻っていた。
「初物を食べると七十五日長生きするって果物屋のおばちゃんが言うから買ったんだ。おばあちゃんたくさん食べてね」
 曇りなく笑った叶人だったが、その瞳はまだ潤んでいた。

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