駆け落ち

 ダブル不倫の末の駆け落ちは、一年足らずで後悔と怒りにまみれた。楽園に行くはずが、地獄に落ちたのだ。まるで映画の主人公になったような気持ちで、手に手を取って新幹線に飛び乗り、途中で降りて在来線に乗り換え、行き当たりばったりの駅で降りた。
 そこは小さな古い港町で、何もかもが煤けて不透明で、どこを歩いても魚の生臭い匂いが漂っていた。
 春子はその匂いさえ愛おしく思えた。これからはずっと一緒に居られる。もう時間を気にすることもない。彼を一日中独占できるのだ。まるで夢の中にいるようだった。世界中の幸せが手の中に集まっていた。
 小さな会社で地味な恋をして平凡な結婚をした自分が、三十八歳にして物語のヒロインになったのだ。新一も、「こんなに激しく誰かを好きになったことはない」と言った。
 二人とも貯金をかき集めて出奔したから、当座の生活には全く困らなかった。ただ消費するだけの贅沢な日々が始まった。仕事に行くこともなく、鄙(ひな)びた旅館で一日中愛を貪りあう。春子は母でもなく妻でもなく、女でしかなかった。
 しかし…半年が過ぎた頃から、少しずつ魔法が溶け始めた。そして一年が経った時にはほとんど会話もなくなった。互いに飽きてしまったのだ。
 激しい恋心はすっかり冷め、代わりに望郷の念と、捨てて来た家族への罪悪感と、子供に会いたい気持ちがじわじわと心を侵食してきて、何も楽しめなくなった。
あんなに好きだった人が、狂おしく求めていた人が、王子様が、どこにでもいる平凡なただの男になってしまった。
 自分はダイヤモンドを捨てて、石ころを拾ったのだ。何という愚か者だったことだろう。春子は絶望した。
 春子だけではない。新一も同じように絶望しているのが手に取るようにわかった。
無精髭を剃ることもなく、旅館の浴衣の前をはだけて、一日中布団に寝っ転がって漫画を読んでいる。彼もまた、この恋に冷めたのだ。
 自分たちはロミオとジュリエットではなかった。それを知るために、何もかも捨ててしまった。
 会話がなくなり、代わりにため息とケンカが増えた。
「帰ろう…」
 口火を切ったのは春子だった。
 新一が、ホッとしているのがはっきりとわかった。
「許してくれるかな…」
「一生懸命謝れば…。子供だっているんだし」
 春子の息子は十二歳。新一の娘はまだ七歳だ。
 
 処刑台に上るような気持ちで捨ててきた家族の元に帰った春子だったが、夫も夫の両親も許してはくれなかった。
 実家の両親でさえ「世間体が悪い」「恥ずかしい」と言って、出戻ることを許さなかった。
 春子はわずかばかりの金を両親から渡されて、隣の県に行き、そこで職を見つけて一人暮らしを始めた。
 故郷の町から高速バスで一時間ほどの近さだが、気持ちの上での距離は海外くらい遠かった。
 そしてあっという間に長い時が流れた。前期高齢者の仲間入りをした春子は、十年前に買った小さな中古の家に、猫と一緒に暮らしている。
 とうとう再婚はしなかった。それが自分にできるたったひとつの贖罪なのだと思っている。春子が産んだ娘は結婚して子供も生まれ、二年に一度くらい会いに来てくれるが、決して心を開いてはくれない。
「幸せに暮らしている?」と訊けば、必ず「幸せにやってるよ」と感情がこもらない声で返す。
「あなたと違って、私は家庭を大事にしてるから」
 本当はそう言いたいのを我慢しているのだろう。
 春子は、炎に焼かれているような恋の日々を思い出しても、もう何も感じなくなってしまった。
 
 久しぶりの帰省は、母の葬儀だった。猫だけで一昼夜留守番させるのが心配で、猫も連れて車での移動となった。
 葬儀が終わって、自分の車に乗り込んだ時、猫がいきなり吐いた。
 春子はパニックになって、すぐ近くの動物病院に駆け込んだ。猫だけが春子にとって家族であり、自分を愛してくれる存在なのだ。
 そこで応急処置をしてもらい、ケージを抱きかかえて待合室で会計を待っていると、長いソファーの端に、一人の老人が同じようにケージを膝に乗せてイライラとした様子で座っていた。
 その横顔を見た時、何か心に引っかかるような奇妙な感じがした。
「大河内さん」
 受付の女性に名前を呼ばれて、老人が立ち上がった。
 ああ、やっぱり…。
 奇妙な感じの訳がわかった。その老人は新一だったのだ。
 すぐに分からなかったのも無理もない。新一は春子より六つ年上だから、もう七十才を幾つか過ぎている。
 新一がケージを下げて診察室に向かって歩き出した時、受付の女性が「倉橋さん」と春子の名前を呼んだ。
 しかし新一は、振り返ることもなくそのまま診察室に入って行った。
春子は離婚後も夫の姓を名乗っているのだが、新一にとって「倉橋」という名前はもう記憶の彼方に消えて、なんの意味も持たなくなったのだろう。
 そして春子もその時気付いた。新一はもう自分にとってなんの意味もない存在なのだ。感慨も、懐かしさもなかった。彼はただ景色の一部でしかなかった。
 春子は自分の命以上に大事な猫と一緒に車に乗り込んだ。
 その帰り道、心を占めている想いは、猫を一分でも早くかかりつけの動物病院に猫を連れて行きたいということだけだった。


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