トラのお仕事

 トラ猫の「トラ」が、どのような経緯でグループホーム「春の里」の飼い猫になったのかを知っている職員は、もう古参の施設長しかいない。ヘルパーも介護士もこの七年の間で入れ替わってしまったのだ。
 もともとトラは、十年前に入所した秋山美智子の飼い猫だった。夫亡きあと、大きな家でトラと暮らしていたのだが、認知症が進んで一人暮らしが難しくなった。
 しかし「トラと離れては暮らせない」と言って、老人ホームに入ることを拒み、ほとほと困り果てた娘が、夫の知り合いである「春の里」の経営者に泣きついたところ、トラも一緒に入所することが許されたのだ。
 ちょうど利用者のために猫を飼おうかという話が職員の間で検討されていたこともあり、最高のタイミングだった。
 この二、三年で、美智子の認知症はさらに進み、たまに孫が来ても「どなたさん?」と訊くこともある。過去の記憶も曖昧(あいまい)になって、結婚前のことと結婚した後の出来事がごちゃ混ぜになって「早々と未亡人になったから看護婦をして随分苦労したわ」などと言う。
未亡人になったのは七十五歳の時で、看護婦をしていたのは結婚前だ。
しかし、トラのことだけはしっかり覚えていて、夫が亡くなる一年前に家の近くでないていた仔猫を拾ってきたことや、夫婦でトラを取り合って溺愛したことなど細かく記憶している。そして夫はきっと自分が死んだあと寂しくないようにトラを形見に置いていってくれたのだと信じて疑わなかった。
 トラはほとんどの時間を美智子の部屋で過ごすのだが、美智子がリビング兼食堂の共有スペースにいる時は、いつの間にかやって来て、静かにくつろいでいるのが常だった。
このホームを終の住処(ついのすみか)にした利用者は美智子を入れて十二人で、誰がトラを膝にのせるか、いつも取り合いになる。トラはホームのアイドルなのだ。
面会に来た利用者の家族に職員は「猫を飼うと脳機能を活性化させるんですよ」だの「血圧や心拍数も低下するそうです」だのと自慢げに話す。
それが本当かどうかはともかく、トラがいると皆の心が和むことは間違いなかった。
 この七年の間に二人の利用者が亡くなったのだが、二回とも第一発見者はトラだった。
 トラが利用者に寄り添っていて、職員が近づくと、もうその人はこの世とあの世の境を越えていたのだ。
「偶然じゃないと思う」
 職員は皆口を揃えた。
「安らかな顔だったよね」
「トラに看取られて、安心して旅立ったんだね。トラはいいお仕事したね」
 職員も利用者の家族も、そう言い合って泣いた。
 そして利用者は皆口々に「私の時もそばにいてね」とトラに声をかけるのだった。
 トラも老いて以前のような活発さは失われたが、ますます熱心に利用者の部屋を訪ね歩くようになった。
 静かに部屋に入って来て、生存確認をするように利用者の顔に鼻を近づけ、利用者が気づいてなでると、長居はせずにすっと部屋を出て行くのだ。たったそれだけの短い訪問だが、利用者は皆それを心待ちにして、部屋の引き戸を十センチほど開けている。
 酷暑の夏が去り、イチョウ葉やモミジ葉が色鮮やかな色に染まり始めた頃、春の里で恒例の秋祭りが催された。庭木はクリスマスツリーのように美々しく飾り付けられ、焼きトウモロコシや綿飴などの屋台も出て、家族や近隣の人達がやって来る。一年で一番大掛かりなイベントだ。美智子の娘や今年結婚したばかりの孫娘もやって来た。
 美智子は屋台で焼きそばを買って食べ、初めてタピオカにも挑戦した。孫娘と楽しく写真を撮ったりしていた時、ふと自分の部屋の方を見やると、トラがベランダのガラス越しにじっと美智子を見ていた。
「トラちゃんが寂しそうにしてるから、おばあちゃんちょっと行ってくるね」
 孫娘にそう言い置いて、美智子は部屋に戻った。
 トラを抱いて賑やかな庭に目をやると、つるべ落としの秋の陽は早々と暮れて、庭木に巻きつけられたクリスマスツリー用の電飾が点滅していた。
 職員達の手で花火が打ち上げられるのを、美智子は満ち足りた思いで見守った。
 孫娘が美智子に気づいて手を振り、それに振り返しながら、思わず「楽しかったね〜」と声が漏れた。
 お祭りが終わり、美智子の娘と孫達が挨拶をするために部屋にやって来た。
 しかし、トラを腕に抱いて眠っている美智子を見て、三人とも声をかけずにそっと部屋を後にした。
 祭りのかたづけを終えて、利用者一人一人の部屋をまわっっていた介護士は、美智子がすでに死の谷を超えたことに気づいた。
 そして、安らかな顔で微笑みを浮かべている美智子の腕の中で、トラもその命を終えていたのだった。
 

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