長子さんの足音

 長子(ちょうこ)さんの足音が好きだ。
 纏足(てんそく)かと思うほど小さな足で、しのびやかに優しく歩く。歩幅は狭いが、すり足とは違う。意思を持って、そっと歩くのだ。誰かの耳に障(さわ)らないように、誰かの眠りを妨げないように。
 長子さんは、九十年以上の人生をずっとそんな風に生きてきたんだろう。ひっそりと、この世界の隅っこで、誰の邪魔にもならぬように……。
 夜勤の時、長子さんがトイレに立って詰所の前を通る足音を聞くと、俺はどんなに心がガザガサとささくれ立っていても、いつだってなめし革のように柔らかく滑らかになっていく。
 グループホーム「虹の郷(にじのさと)」で一番古参のスミ子さんは、認知症ではあるが、ごく軽い。ついさっきの出来事を忘れてしまうし、職員の名前も忘れるし、飲まなければならない薬も忘れるが、読んだ本の話をしてくれたり、季節が変わったことを真っ先に教えてくれたりする。そして昔のことはびっくりするくらい鮮明に覚えているのだ。
 特に戦死したご主人の話になると、まるで昨日のことのように生き生きと話してくれる。その時の長子さんはまるで恋する乙女だ。
「夫は大学四年生の時に学徒出陣で横須賀第二の海兵団に入団したんです。入団の直前にうちうちで祝言を挙げたんですよ。卒業を待って結婚するはずだったのを、両方の親の希望で早くなりましたの。母が着た花嫁衣装を着せてもらって嬉しかった。昔の花嫁衣装は黒留袖だったんです。御所車が刺繍してあってそれはそれは綺麗な着物だった。でも夫は最後まで結婚するのを迷っていたみたい。自分が戦死したら私の戸籍に傷を残してしまうって。私がまだ十八歳だったから」
 しかしその新婚の夫はたった一週間一緒に暮らしただけで出征し、優しい手紙を残して戦死してしまった。
「僕が亡き後、君を幸せにしてくれる人に出逢ったら、少しも遠慮せずに結婚しなさい。君の幸せをどこにいても祈っている。僕の妻になってくれてありがとう。君のおかげで幸せな人生だった」
 元はきっと白かったのだろうが、月日に洗われて薄茶色くなった便箋に書いてある文字は達筆で、少しの乱れもない。まだ二十二歳だったのに、心の迷いが全く感じられないのが不思議だった。無念な思いや絶望や怒りや恐怖とは、どうやって折り合いをつけたのだろう。
 俺より六つも年下だというのに、こんなにも人生や命や運命を達観(たっかん)できるなんて、すごい人だ。
「みんなお国のために、命を捧げたの。お国のため、愛する人たちのためにね」
 長子さんはいつもそう言って誇らしげに背筋を伸ばす。だけど、そのあとで必ず寂しそうに微笑むのだ。
 長子さんは古いアルバムを開いて見せてくれた。薄い茶色の布製のアルバムで、黒い地に白黒の写真が貼ってある。
「美男子でしょ?」
「マジイケメンっす!長子さんも超美人」
 それはお世辞なんかじゃない。美男美女カップルなのだ。
 襟にレースがついた白いワンピースを着て、風鈴がぶら下がった縁側に座っている長子さんは、もし今会ったら一目惚れしそうに綺麗だ。こういう昔風の美人顔は、最近の女の子の中にはいない気がする。
 夫は長子さんにとって初恋の人だったという。
「だからね、たった一週間でも一生分の幸せをもらったんです」
 長子さんは愛おしそうにフォトフレームの写真を撫でた。そんな愛もあるのだなあ。
 写真の夫は、その言葉が聞こえたかのように微笑んでいる。彼は一日中ベッドサイドテーブルの上から、長子さんを見守っているのだ。こんなにも優しい眼差しで。
 これはいわゆるパイロットスーツというものなのだろうか。ゴーグル付きの帽子を被り、白いマフラーを首に巻いた夫は、満開の桜の木の下で、両膝を抱えてリラックスした表情で座っている。この写真は「同期の桜」に撮ってもらったのかもしれない。
 長子さんは、最愛の夫を喪(うしな)って七十年以上、どんな気持ちで生きてきたのだろう。結婚もせず、和裁を生業(なりわい)にしてひっそりと生き、十四年前にこの施設に入った。
 いつも笑顔でいるけれど、幸せだったのだろうか。後悔はなかっただろうか。
 もし「幸せですか?」と訊いたら、長子さんは間違いなくこう答えるだろう。
「もちろん幸せですとも。皆さんに優しくしていただいて、毎日美味しいご飯を食べさせてもらって、可愛いレインちゃんまでいるんですもの、不満なんか言ったらバチが当たる」
 レインは「虹の郷」で暮らしている猫だ。白に茶のバイカラーで、まだ生まれたばかりの仔猫の時に、敷地内に迷い込んできたらしい。「らしい」というのは、十年以上前のことで、その事情を知っているのは、施設長と長子さんだけなのだ。
 利用者さんや職員が食べ物をあげているうちに、レインはここを自分の家と決めた。昔は毎日外に出かけて時には朝帰りすることもあったらしいが、二、三年前からはずっとホームの中にいるようになった。長子さんは母性の全てをこの猫に与えて、溺愛している。おかずに魚が出ると、半分はレインのご飯になる。そのまま与えるのではなく、お湯で煮て塩分を落としてから食べさせるのだ。レインは建物内を好き勝手に歩き回るが、夜になると、いつも長子さんの部屋に行き、ベッドの枕元に寝る。
 レインのおやつ代や病院代は、ほとんど長子さんが遺族年金の中から出している。利用者さんや職員も「レインちゃん用貯金箱」と書かれたお菓子の缶に少しずつお金を入れているが、それだけでは全く足りない。この二、三年は病院に行く回数が増え、一回の受診だけで万単位のお金が飛ぶのだ。
「お金の使い道が他にないからいいの」
 長子さんは、ちょっとでもレインの体調が悪そうだと、タクシーを使ってペット病院に連れて行き、高い注射をしてもらったりしている。
 自分のためにはほとんど使わないが、レインのためにはお金を惜しまない。きっとレインは長子さんの生きる目的なのだ。
 それなのに、それなのに、レインは長子さんの枕元で眠ってる間に逝ってしまった。
 老猫だから、みんな覚悟はしていたけれど、あまりに突然で悲しみよりも驚きの方が大きかった。
 俺も他の人も皆長子さんのことを心から心配した。喪失感に耐えられるだろうか。絶望のあまり生きる気力を失うんじゃないだろうか。
しかし長子さんの反応は、予想とは違っていた。
 悲しみながらも、取り乱すことはなく、どこかホッとしているように見えたのだ。
「寂しいですね。大丈夫ですか?」
 恐る恐る訊いたら、
「大丈夫よ。レインちゃんを見送るまでは死ねないと思っていたから、もう気がかりなことはなんにもなくなったの。思い残すことは何もないわ。もうこれで安心して夫の元に行くことができる」
 潤んだ瞳で晴れ晴れとした笑顔を見せた。
 そしてその言葉通り、わずか三日後に長子さんはあっけなく境界線を超えてしまった。たまたま俺が夜勤の時で、夜中三時の見回りの時には寝息を立てていたのに、明け方六時の見回りの時にはもう息をしていなかった。安らかな顔で、微笑みさえ浮かべていた。
 職員の一人がしみじみとこんなことを言っていた。
「長子さんは、あなたの夜勤の時を選んで旅立ったのね」
 孫のように可愛がってくれたことを思い出して、俺はその場にしゃがみこんで泣きじゃくった。
 長子さんは弁護士さんに死後のことをちゃんと書類にしていたので、何も問題はなかった。立つ鳥跡を濁さずの見本のようだ。
 長子さんの持ち物は全て捨てるようにと遺言書に書いてあったが「もし欲しい人がいればあげてください」と付け加えられていた。
「そうだ。うちに長子さんの写真を飾ろう!」
 俺は長子さんのアルバムをもらうことにした。なんとなく、俺が住む場所が長子さんの「帰る家」になるような気がしたのだ。
「長子さん、ごめんよ。こんな狭いアパートで。いつかもっと広い部屋に引っ越すからね」 
 俺は買ったばかりのフォトフレームを取り出した。最大五枚の写真を入れることができる大きなもので、白い縁に銀色の葉っぱが描かれている。
 まずは長子さんと夫の結婚写真を真ん中に入れた。そしてこの写真を取り囲むように、軍服姿の夫の写真や、「虹の郷」で撮られた長子さんの写真を入れた。
 俺が選んだのは、長子さんが談話室のソファーでレインを抱いている写真と、誕生日会で嬉しそうにケーキを食べている写真だ。どちらもとびきりの笑顔で、見ている俺までもつられて微笑んでしまう。
 タンスの上を占領していた漫画や目薬やフィギュアを全部どけて、そこにフォトフレームを置いた。そしてペットボトルのお茶を、一番いい湯飲みにそそいで供えた。
「明日超高い茶葉を買ってくるからね。毎日美味しいお茶いれるよ。長子さんが好きなあんこの入った最中(もなか)もお供えするから楽しみに待ってて下さい」
 手を合わせたら、不思議なくらい心がすっと鎮(しず)まった。
 その夜、俺は何かの気配を感じてベッドに起き上がった。スタンドライトをつけて部屋を見回し、カーテンを開けてベランダの外を見た。街路灯の明かりに沈む街は静かに眠っている。しかし、気配は消えない。
 ふと後ろを振り返ると、スタンドライトの明かりをフォトフレームのガラスがはね返した。
 その瞬間、俺の心臓はドクンと跳ね上がった。
 桜を背にした夫のそばに、若き日の長子さんが……あの白いワンピースを着た長子さんが寄り添っていたのだ。しかも、その腕にレインを抱いて……!
 俺は息をするのも忘れてその場に立ち尽くし、長子さんの輝くように幸せそうな笑顔を見つめた。
 しかし、わずか二、三秒後、写真の中の長子さんとレインはふっとかき消えて、元の通り夫だけが桜の下に座っていた。
「よかったね、長子さん。よかったねレイン……」
 その時、どこからか長子さんのあの優しい足音が聞こえてきた。歩幅も足の運びもそのままに。音を盗みながら、そっと滑るように、いたわるように…。
 足音は小さくなり、やがて消えてしまった。

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