叶人の告白

第八章 
「どうしてもお墓参りがしたいの」
 猛暑の中、突然言い出した母の気持ちが秋臣には痛いほどわかっていた。目に見えて弱っている体を考えると不安が先に立つが、これが最後の墓参りになると思えば止めることはできなかった。
 秋の彼岸には母自身が墓に入っているだろうという現実を振り払うように、秋臣は父の墓の周りに生える雑草を黙々と抜いていった。
 叶人が差し掛ける黒い日傘の下で、寿美子は長い間手を合わせた。そして晴れ晴れとした顔で立ち上がった。
「お父さんが喜んでるわ。家族が揃って来てくれたって」
 秋臣は必死に笑顔を作って墓の前にしゃがみこんだ。
 父さん、ごめん。母さんをだましてごめん。智夏に会わせてやれなくて本当にごめん。胸の中で何度も詫びながら、胸をよぎったのは四十年前の早春の夕刻だった。
 電話のベルが鳴り、受話器を取った母の顔がみるみる歪んで真っ白になったのをはっきりと覚えている。そのあとのことはいくつかのシーンしか記憶にないが、それもまた色褪せることなく目の中に残って秋臣を苦しませ続けていた。
 遺体安置所で対面した物言わぬ父、その場に泣き崩れた母の泣き叫ぶ声、フロント部分が大きくひしゃげてしまった車、そして後部座席にあったというランドセル。それはもうすぐ小学校に入学する秋臣のために父が買ってくれたものだった。
 四十年経っても、あの日の記憶は色褪せない。思い出すとたちまちあの日に引き戻されて、黒いランドセルが目に浮かぶのだ。
 胸に重苦しいものが広がって行くのを振り払うように立ち上がると、叶人が墓石の前に進み出て両膝をついた。長い睫毛が伏せられた横顔が、花立てに挿し入れられた白百合とともに目に映る。
 叶人は長い間手を合わせていた。赤の他人の墓に、何を語りかけているのだろう。きっと本当の孫なら「守ってくれてありがとう」とか「みんなで仲良く暮らしているから安心して」とか、語りかける言葉はたくさんあるだろうが、彼には何もない。今この場にいるのは騙している人間二人と騙されている人間一人なのだ。それなのに祈る姿には嘘も偽も汚れもなく、ただ清らかで無垢な魂がひたむきに合掌しているとしか思えなかった。
 
 家に帰り着き、早めの夕食をすませると、寿美子はナスとキュウリに楊枝を刺して玄関に飾った。
「それ、何」
 叶人が不思議そうに訊いた。
「これはお馬さん。精霊馬(しょうりょううま)っていうのよ。ご先祖様をお迎えに行く乗り物」
「へえ」
「今日は疲れたから、二人で迎え火を焚いてね」
 そう言い置いて自室に入って行く後ろ姿を叶人は心配そうに目で追っていた。
 秋臣は庭に出て迎え火を焚く準備を始めた。
 「それ割り箸?」
 様子を見ていた叶人が縁側に立って訊いた。
「違うよ。おがらって言ってね、麻の皮をはいだ茎だよ。この時期になると花屋さんで売られてる」
 嵐の夜の一件以来、二人きりで話すのは初めてだ。秋臣は視線を合わせることを避けていた。
 素焼の平皿に敷き詰めたおがらに、新聞をのせて火をつけると、たちまち小さな炎になった。
秋 臣は陽が傾き始めた西の空に向かって手を合わせた。
「ご先祖様、この火を目印にして家に帰ってきて下さい」
 振り向くと、叶人も神妙な顔で手を合わせている。
 秋臣は父の暮石の前の叶人の姿を思い出した。
「さっきお墓で随分長く祈っていたね。僕の父にどんなことを語りかけてたの?」
「……息子さんを俺にくださいって」
「え!?」
 叶人は唇の片端を少し上げ、曖昧な笑みを浮かべた。
「冗談だよ。本当はおばあちゃんが一日でも長く生きられるよう助けてくださいって祈ってた。それから…おばあちゃんをだましてごめんなさいって」
 思いがけない言葉に秋臣は言葉もなく、泣き出したいような気持ちになった。
 縁側に座って空を見上げると、叶人が寄り添うように横に来た。並んで座った二人の視線の先に月と星が並んでいる。
「一番星だ」
 叶人が伸ばした細い指の先にはひときわ明るい星が輝いている。
「あれは金星だ。宵の明星ともいうんだよ」
「ふうん……」
 暮れなずむ西の空を見上げたまま叶人は大きなため息をついた。
「俺……遠坂さんが好きだよ」
 秋臣の心臓がドクンと跳ね上がった。
 その「好き」はどういう意味なのか、見当もつかない。
 叶人が秋臣の膝に置かれた手の甲にそっと手を重ねた。
「今まで人生で出会った人の中で一番好きだよ。遠坂さんの奥さんはバカだな。こんな人と別れるなんて」
その手は、言葉よりはるかに饒舌だった。
「俺のこと好き?」
 叶人の潤んだ瞳が秋臣をじっと見つめた。
 その瞬間、秋臣の心を囲っていた要塞が砂糖菓子のようにもろもろと崩れ去り、心が欲していたものがむき出しになった。
 今、この手を握り返すことができたらどんなに幸せだろう。心が激しく揺れた。
 しかし、秋臣にはわかっている。叶人がどれほど愛に飢えてきたかを。どれほど強く家族と温かい普通の家庭を望んでいるかを……。
 叶人が抱いている気持ちが恋愛感情かどうかさえわからない。家族とか家庭というものへの渇望から、初めて父親のように接した自分に執着してしまったのではないだろうか。彼が勘違いしているのをいいことに、関係を持つことは絶対に許されない。もうすでに母にも妻にも一人息子にさえ、この世では返しきれない借財を負っているようなものなのに、これ以上誰に対しても罪を犯したくなかった。
 秋臣の目の中で、下弦の月が滲んだ。
 重ねられた叶人の手に力が入った。
「好き?」
「…好きだよ……本当の息子のように思ってる」
 叶人はまるで焼け火箸でもつかんだかのようにパッと手を放し、裸足で庭に飛び降りた。そしてさっきまで大輪の花を咲かせていた夾竹桃(きょうちくとう)に近づいて、しぼんでしまった花を一つ一つ乱暴に摘み取り始めた。一日花の儚い命を惜しんでいるのか、それとも、花も人もどうにもならない宿命を背負っていることへの切なさをぶつけているのだろうか。
 その背中越しに宵の明星を見上げながら、秋臣の胸の中にこれまでの人生で経験したことのない静かな絶望が沈んでいった。
 愛する者は皆、自分から去っていく。自分を待ち受けている未来は一日花より虚しい日々だけだろう。
 それでも、叶人の背中に声をかけることはできなかった。伝えたい言葉は唇まで届いている。それでも、その言葉を声にしてはならないのだ。
 秋臣はあふれる想いをため息に変えて、地面に落ちた一日花の亡骸(なきがら)をぼんやりと見つめた。

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