牧のひとり言

「楽しかったですね」 
 波乱の新婚旅行だったけど、家に帰って荷物をほどきながら、自然に口に出た。
 春田さんは旅館のお土産コーナーで買ったお饅頭の箱を手にして、
「うん、めっちゃ楽しかった!」と満面の笑みを浮かべた。
 あんなに色々あったけど、やっぱり行って良かった。部長が一緒じゃなかったら100倍楽しかっただろうけど、まあいい。
「これ片付けたらお茶にしましょう。そのお饅頭開けてください」
「やった! これ延命饅頭だって。俺、二つ食うから、牧も二つな! 二倍延命しようぜ。だけどさ〜牧、あれはダメだと思うなあ。俺に黙って和泉さんと指輪探しに行ったこと。正直に俺に話せばよかったじゃん。そしたらさ、あんな大乱闘にはならなかったわけだし」
「すみません…」
「いや、別に謝らなくていいんだけど。かわいそうなことしたなって…。いっぱい心配して、泥だらけになってさ」
 春田さんはお菓子の箱を置いて俺の頭をなでながら、
「これからは、なんでもまず最初に俺に言ってくれよな。夫夫(ふうふ)なんだからさ」
 そう言って、ぎゅっと抱きしめてくれた。
 「はい。約束します」
「じゃあ、指切りな」
 指をからませた時、指輪をなくしたと気づいた瞬間のショックを思い出した。
 指輪はただの金属の塊だけど、どうしてもそんな風に割り切ることができなかった。結婚指輪を選びに行った俺たちの楽しげな様子を、指輪は覚えているだろうし、これから俺たちの人生をずっとそばで見守ってくれる。だから、すごく大切なものなんだ。
「結婚指輪を、新婚旅行でなくすなんてあり得ないですよね。春田さんならあり得ますけど…」
「おい!まあ、そう言われれば、確かにそうだけど」
「ていうか、あれなくしたの春田さんのせいだし」
「ごめん。だけどさあ、もしこの先指輪をなくすことがあっても、それは諦めようよ。何をなくしても、大丈夫だよ。俺たちの心が覚えてるんだから、それでいいじゃん」
「心が覚えている…。でも年取って認知症になったら、たくさんの思い出も消えちゃいますね」
「それはそれでいいじゃん。きっとあの世に行ったら思い出すんじゃないかな。なんかそんな気がする」
40年、50年先の自分たちの姿を思い描こうとしたが、できなかった。七十代、八十代になった俺たちは、どこでどんな風に生活しているんだろう。
「50年後もこんな風に、仲良く暮らしていたいですね」
「だな」
「春田さんは多分ボケると思うけど、ずっとそばにいますから」
「よろしくお願いしま〜す! って、ボケる確定かよ。ま、多分ボケる」
 春田さんは俺の顔を覗き込んで肩を抱き寄せ、優しいキスをした。
 俺はふと指輪に目を落とし、このキスも、きっと指輪は覚えていてくれるんだなと思った。
「牧〜、腹減ったよ〜。早く延命饅頭食おうよ〜」
「はいはい。じゃあ、お茶いれますね」
 勢いよく立ち上がってヤカンに水を注ぎ入れた。たった一日留守をしただけなのに、キッチンの鍋や布巾や食器の何もかもが愛おしく感じる。それはきっと、ここが帰りたい場所だからなのだろうな。10年後、20年後、30年後、どこに住んでいようと、そこがきっと帰りたい場所なんだろうと思う。春田さんと一緒なら、どこであれ「帰りたい場所」になるのだから。
「緑茶にします? ほうじ茶?」
「ほうじ茶〜!そういえばさ、あの大乱闘の時、俺が止めてなかったら、牧は本気で部長に矢を射るつもりだったの?」
「当たり前じゃないですか。マジでやっとけばよかった。春田さんが止めるから…」
「怖えっ! だけどさあ、あの時は必死だったけど、今思い出すと、みんな結構ヤバかったよな。菊さま、酒癖超悪いし…っていうかあれで公安務まる?テロ犯に捕まって酒飲まされたら国家機密ベラベラ喋っちゃうんじゃね?日本ヤバっ。ていうか、成仏って!俺死んでねえし」
 菊さまは、今でも秋斗さんと春田さんを重ねているような気がする。だから春田さんに嫉妬しているのかもしれない。時々菊さまの目の中に小さな火が燃えているのを、春田さんは鈍いから気がつかないのは仕方ないけど、なんで和泉さんは気づかないんだろう。菊さまの気持ちはみんなにバレバレだというのに。
 それにしても、和泉さんと菊さま、なんで公安?日本の安全…。
 香ばしいほうじ茶をお揃いの湯飲みに入れ、延命饅頭を二つずつ皿にのせると、春田さんは嬉しそうに手を伸ばした。
「うんめっ!これあと二つ食べてもいい?」
「ダメです。夕食が入らなくなるし、甘いもの食べ過ぎ。アラフォーなんだから糖分と塩分に注意しなくちゃ」
「は〜い。了解で〜す。あの時さあ、部長が不倫とか余計なこと言うから大騒動になっちゃったけど、最後は仲良くみんなで酒飲み直したり、旅館の人に謝りに行ったりして、楽しかったよな。あれはあれで。いい思い出になった」
「ですね。だけど、もう一回新婚旅行やり直したいです。部長抜きで!!!」
「わ、わかった。行こう。春か、秋に」
「何があっても部長誘わないでくださいね」
「誘わないよ〜。ばしゃうまクリーンサービスも解約したし、この先そんなにしょっちゅう部長に会うことないから、誘うチャンスなさそう」
「だけど俺、なんだか…いや〜な予感がするんですよ」
「いや〜な予感って?」
「部長との縁がもっともっと濃くなるような…。行く先々で部長に出くわすような…」
「んなわけねえだろ」
 春田さんは俺の髪をくしゃくしゃっとなでて、両手で俺の顔を挟み、額と頬とキスをして、それから唇にもちょっと大人のキスをした。
 だけど、俺のいや〜な予感は少しも消えなかった。

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