嵐の夜に

 家に帰る犬養の車を見送りに門の外に出ると、叶人は少し離れたところに所在なさそうに立っていた。
 犬養はよく眠れたらしく、昨日の疲れの名残などかけらも見えない。
 「先輩、お世話になりました。本当に楽しかったです。また来ていいですか?」
「それは構わないけど、もうそろそろ本格的なクラゲシーズンだから、どうかな」
「そっか、残念。あ、そうだ。俺気になってたんすけど……」
 犬養が声を落とした。
 秋臣はギクリとして次の言葉を待った。
「気になることって?」
「智夏君、なんか元気ない感じがして……。受験のストレスきついんじゃないかな。俺が使ってた参考書とか問題集、いりませんか? それから、俺でよかったら家庭教師しますよ。兄貴だと思ってなんでも相談してって言っといて下さい」
 あまりに無邪気な眼差しに、秋臣はたじろいだ。善意しかない犬養をだましていることが申し訳なかった。
「心配かけてすまない」
「とんでもないです。俺も受験生の時が一番ストレス大きかったからわかります。うちは父も兄も志望校に受かって当たり前って家だったんですよ。母がめちゃくちゃ教育ママだったんでその期待が重たくて重たくて……。家の中で話し相手は猫しかいなかったんです。でも、その猫はあんまり長生きできなくて。俺の愚痴を毎日聞いてくれて、ストレスを吸い取ったからじゃないかな……」
 犬養の目元が潤んでいた。秋臣は犬養が今までとは少し違って見えた。天真爛漫でなんの苦労も知らないように見える犬養にも、読み取れない行間(ぎょうかん)があったのだ。
「ありがとう。智夏に伝えておくよ」
 犬養は大きくうなずいて車に乗り込み、窓を開けて叶人に手を振った。
「智夏君、またね!」
 車が走り出し、叶人は笑顔で手を振っていたが、車が視界から消えると、秋臣には目もくれずに門の中に入ってしまった。
「じゃあ、中卒で孤児で無職でも恋愛対象になるのかよ?」
 昨夜、叶人が吐き捨てた言葉と、鋭い射るような視線が思い出されて心にザワザワと風が立った。
「恋愛対象……」
 思わず声にした独り言に、蝉の声がまとわりついて離れなかった。

 オフィスの地下にある駐車場から地上に出ると、午前中より雨脚がさらに速くなっていた。ワイパーを最速にしても前が見えにくい。
 今日は叶人の稽古日だ。秋臣は稽古場がある下北沢に向かったが、道路がひどく混んでいて、普段の倍近くかかってしまった。
 商店街のアーケードの中から車に駆け寄った叶人は体当たりせんばかりにドアを開けて乗り込んだ。まるで海から上がったかのようにずぶ濡れだ。
 雨と体臭が混じり合い、かすかに生臭い匂いが車内を充たした。
「こんな日に傘も持ってこないなんて」
「傘は嫌いなんだよ」
 吐き捨てると同時に、叶人はTシャツを脱いで雑巾のように絞った。雨脚はますます強くなり、道路が川のようになって高いところから低いところへと水が流れている。
「おばあちゃん大丈夫かな……」
 叶人がつぶやいた。それは雨音がかき消すほどの小さな声で、思わず漏れ出た独り言に違いなかった。
 家に着いてガレージに車を入れるや否や、叶人は外に飛び出した。
 秋臣が玄関に入るのと、叶人が真っ青な顔で玄関に走って来たのが同時だった。
「おばあちゃんの様子がおかしい!」
 部屋に飛び込むと、寿美子は紙のように白い顔で荒い息をしていた。声をかけても反応がない。
 「母さん!母さん!すぐ先生にきてもらうからね」
かかりつけの病院にすぐ電話を入れた。家から病院までは車で十分足らずだが、その十分が途方もなく長く感じられた。
 寿美子の手を握っている秋臣の背中に、優しい手がそっと触れた。背中を上下するだけの手はこの上なく饒舌で、言葉にしない想いが何の加工もされずにそのまま伝わってきた。

「大事をとって今夜はうちに入院してもらいましょう。万が一調子が悪くなってもこれ以上雨がひどくなると、すぐに駆けつけられないかもしれないし」
 駆けつけてくれたかかりつけ医は、寿美子の前ではいつもの温顔だったが、部屋の外に出ると眉根を寄せた。
「今夜のところは大丈夫ですけど、いつ何が起きてもおかしくない状況なので、覚悟はしておいて下さい」
 わかってはいた。良くなることはないと。終わりがすぐそこに見えている状況だと。しかしそれは今日ではない。そして明日になればまた「それは今日ではない」と思うのだ。その「明日」は永遠に来ないような気がしていた。しかし、別れの明日はもうそこまで来ているのだ。

 医者の車が走り去ると、二階に隠れていた叶人が降りてきた。髪も服もぐっしょりと濡れたままだ。
「おばあちゃん、どうなった?」
「うん、今夜は入院させてもらうことになったよ」 
「そっか。その方が安心だ」 
叶人が「クシュン」とくしゃみをたて続けに二回した。
「ああ、ごめん!体が冷えたんだな。すぐシャワーして着替えて」
「じゃあ、適当に服もってきといて」
 秋臣は二階に上がってタンスの引き出しを開けた。智夏用に用意した服は半袖ばかりで、仕方なく自分のワイシャツを脱衣場所の籠の中に入れた。
 台所でコーヒーをいれていると、シャワーを終えた叶人が入って来た。
「手が出ねえ」
 行きつけの店で仕立てたワイシャツは特別に腕の長い秋臣に合わせてある。いわゆる「萌え袖」になった叶人はひらひらと両腕を降って見せた。肩の線がだいぶ落ちて子供のようだ。その姿に秋臣の胸が疼いた。
「ほら、これで体温めて」
 テーブルにコーヒーを置くと、叶人は両手でマグカップを持った。そしてそれもまた子供のようにフーフー息を吹きかけた。
「俺、猫舌なんだよ」
 秋臣はコーヒーをすすりながら、叶人の肩越しに窓を見やった。雨が窓ガラスを激しく叩いて大きな音を立てている。その向こうで電線が大きく揺れて、今にも千切れそうな勢いだ。
 風と雨、叶人の吐く息、聞こえるのはそれらの音だけだ。その時初めて、今夜はこの家で二人きりなのだと気づいて、心臓がドクンと跳ねた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?