逃げるは恥だが役に立つ遊牧騎馬民族

先週は、「逃げるは恥だが役に立つ婚」で世間がざわついていた。このご時世にめでたい話は巷を明るくするので、大変良いニュースだ。
そして、家に帰ったらガッキーがいる生活って、前世でどんな功徳を積んだら叶えられることなんだろう…

ところで、この「逃げるは恥だが役に立つ」というタイトルについて、ドラマは観ていなかったものの、放映当初からちょっと意味が取りづらい不思議な言葉だなと思っていた。
マジャール人(いまのハンガリー人)のことわざらしいが、「逃げる」と「役に立つ」の連続性がわかるようなわからないような…という感じだ。逃げることで命が助かるかもしれないけど、“役に立つ”というほど積極的な良いことがあるようにはちょっと考えづらいな、と。

そこで、「逃げる」という言葉を再定義してみる。

「逃げる」という行為が発生するのはおおむね、対峙すべき存在(敵)が前提となる。この敵に対して、前進すれば「攻める」、後退すれば「逃げる」ということだ。単純に戦闘中における前進後退の移動だけであればただの戦術だが、上述のように、私が「“役に立つ”というほど積極的な良いことがあるようには考えづらい」と感じたことには、おそらく移動する方向に何らかの価値づけをする要素が差し込まれていると考えられる。

文化人類学者の島村一平氏が、こんなことを言われていた。

このことわざのルーツであるマジャール人、つまりハンガリー人は、アッティラを王としてヨーロッパに攻め込み、いまのドイツから東欧・ロシアまでを支配したフン族というちょー強い遊牧騎馬民の末裔だ。移動しながら暮らす遊牧民にとって、戦闘における後退は戦略的移動であります。命の危機を回避しつつ、もろとも財産まで携帯して守るという、確かに「役に立つ」行動となる。

一方、我々東アジア人のような農耕民族にとって、後退は家や畑といった動かせない資産、つまり不動産を放棄することとなる。固定された任意の地点を起点とした生活様式であり、定住の文化なのだ。そのため、先祖代々受け継いだ愛着のある土地を放棄し逃げるという行為に、強い不安と忌避感情が働くわけなのだ。それは、生活する場所、つまり自分の居場所を失うことでもある。
(つまり、碇シンジ君が「逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ」と自分に言い聞かせていたのは、「ヱヴァンゲリヲン」という固定された地点から動くことによって自分の居場所を失うことへの忌避感情でもあると考えられる。)

とかく日本社会においては「逃げる」という行為はネガティブなニュアンスで解釈されがちだが、逃げることを遊牧民のように「戦略的移動」としてとらえると、もうちょっと違う意味付けができるようになるのかもしれない。また、逃げないことを「自分の居場所を守ること」と捉えれば、次の居場所の確保によって移動が可能になる場合もある。

そう考えると、顔がちょっといいだけのクソ男につかまり相互依存のような状態で友人全員からさっさと別れろと言われながら、
「彼にはあたししかおらんし、裏切られへん」
とかいっていつまでもずるずるつきあっていた同級生のマミちゃんには、
「裏切りじゃない、戦略的移動をしろ」
と、いまなら言ってあげられたのになと思う。
(ちなみにマミちゃんはその後、彼女のことをひそかに好きだった同級生男子に告られて軽やかに戦略的移動を遂げた。めでたしめでたし。)

それにしても、家に帰ったらガッキーがいる生活って(以下略)

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