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アイドル、なりたいですか?ミスコン、出たいですか?

2020/7/25以降、「美を磨く努力を尊重しろ」と突っかかってくる人が多いですが、モデルの競争が過当競争になり医師団体が忠告するレベルで摂食障害が問題となり最悪死んだケースが散見されること、アイドル願望を煽った挙句に自殺するまで努力を強いられた件があるあることなど、「美を磨く努力」が過当競争になり死者まで出す例があるために問題になっています。「美を磨く競争」での摂食障害は一般時にも広く起きており、それが理由で医師団体が「美を磨く競争を煽るな」と声明を出す事態になり、これは古典的でわかりやすい部類の批判です。これは最後まで読めば問題のフレームワークとして扱っていることは分かると思うんですが、10行以上の文章を読めない人が多いらしいので冒頭に追記しました。

Twitterにおける《萌え絵論争》ないし《オタク-フェミ論争》は季節の風物詩どころか日常茶飯事になってきた感があり、つい最近もそのような案件があって「またか」と思っているところである。筆者はそれについて、「オタク向け(としてマーケティングされた)コンテンツが無改変で未成年女子に受け入れられる例が多い、という話をブログにて書いた。

――その際に気が付いたのだが、そのようなコンテンツはいわゆるアイドル物が多いのである(その顕著な例がAKB48である)。若年層のアイドル願望は近年SNS等で可視化され目立つようになったこともあり、ここでもまたそれか――と思ったものである。

承認欲求を求める若年層たち

若年層がアイドルに特に惹きつけられるということは、彼らの間の流行を見ていても分かる。彼らはinstagramやtiktok、あるいはyoutube等のストリーミングで、報酬を受け取ることもなしに自分からメディアに露出し、多くの人に見られているということを喜びとしている――それ自体が喜びなのであろうし、世間一般ではそれはSNSで承認欲求を満たしている、と受け取られている。一昔前には学習塾の会社が運営する「中高生専用SNS」がアイドル願望を煽り立てる商法を行っていたことで世間の顰蹙を買った。

若年層におけるアイドルものの人気は、彼らにとってアイドルという立場が承認欲求を得る手段の究極形に見えている、というのが原因ではないかと推測する。

子供は未熟であるがゆえに、能力や実績によって社会的承認欲求を満たすことは簡単ではない。そう考えると、アイドルは、子供にとって唯一大人と対等な力をもって社会的承認欲求を満たすことが出来る土俵であるとも見ることが出来る。主語の大きい語りをすれば、能力主義がますます幅を利かせる現代にあって、無貌の能力・実績を世間に問い得ぬ子供のような存在にとって、《自分がただ存在しているだけで自分の個性を社会に承認してもらえる》アイドルという立場は、救いに見えるのかもしれない。

女性抑圧としてのミスコン・アイドル

一方で、ミスコンやアイドルの類は、ジェンダー論でも定番のテーマであり、男性を《買い手》とした女性の商品化/モノ化/対象化、セクシュアリティの搾取であるとして、売買春やポルノと併記して反対・排除すべき対象として語られてきた。

日本でも、確かに、セクシュアリティにかかわる問題が全く無視されてきたわけではなく、ミスコンテストや売買春、ポルノへの反対運動、ピル解禁要求は時折浮上したし……
――ホーン川嶋瑤子 (1993) 「言説、力、セクシュアリティ、主体の構築」

特に大学ミスコンなどはよく槍玉にあがるところであり、中止するか、どうしても中止したくない人たちは、ミスターコンと併催して男女差別ではないと主張するとか、あるいはミスターコンの併催が商業的に現実的ではない「ミスワールド」の類では評価基準は美醜だけではないということにして存続を図ろうとしている。

フェミニズムの文脈においてミスコンやアイドルが否定されてきた理由は、ミスコン出場者やアイドルたち自身の商品化・対象化以外に、もう一つある。それは、美しくない――商品化の文脈で言えば「商品価値がない」人が社会から疎外されるという問題である。例えば、日本女性学会では下記のような特集が組まれたことがある。

「女性学」第21号 (2014)
特集 「女」にとって〈美〉とはなにか?美の秩序?資本化?規範の変容?

・特集にあたって / 千田有紀
・書かれた女性の「美」と身体 / 水無田気流(田中理恵子)
・美の秩序への対抗:女子プロレスラーの身体が示唆するもの / 合場敬子
・商品化される少女たちのからだ・こころ・性―性の学習権の保護を― / 金子由美子
・美醜評価の中を生き抜くために―美醜ハラスメント被害とその対処方法 / 西倉実季
・美の秩序への抵抗の可能性―大会ワークショップ雑感 / 荒木菜穂

ここにある「美醜ハラスメント」「美の秩序への抵抗」は、少なくとも半分ほどは阻害された「醜」側による抗議となっている。

ミスコン、アイドル、グラビアを目指す「フェミニスト」達

私は以上のような文脈を当たり前の常識として受け入れていたため、近年のtwitterフェミニズム論壇には困惑することが多い――フェミニストを自称しながらミスコン、アイドル、グラビアを目指し、自らを商品化し美の序列を打ち立てようとすることに余念がない人たちが少なくないからである。これを初めて見たときは、素朴な感想として「アイドル願望がついにここまで及んできたか」と思ったものである。

例えば最近の《萌え絵論争》《オタク-フェミ論争》では、萌え絵批判側の石川優実氏や太田啓子弁護士がコケティッシュ(に見える)グラビアを衆目の目にさらして物議を醸していた(1, 2)。

筆者自身もこのような事例に大っぴらに突っ込んだことがある。下の例では、アイドルを自称し、ミスコンに出たことを誇り、その口でルッキズム批判をしているが、彼女の中でどう整合性を取っているのか想像もつかなかった。

またしばらく前に「ショーンKYはフェミニズムのことを勉強してないのがすぐわかった」などと挑発され、お恥ずかしながら所謂ツイバトルに及んだケースがあったのだが、その時の相手も「ミスSFC2019#7」と読めるアカウント名であった(皮肉で付けていたなら言及は申し訳ないことだが)。

男の目線は関係ない、美しさを誇って何が悪い

もちろん、「男性に美醜序列を付けられるのがハラスメントであって、女性自身の美の追求はこれには当たらない」といった反駁はあるだろう。このような意見の相違はフェミニズムを自称する人の中でも変遷があり、雑に略せば「女=ピンクといったジェンダーロールは押し付け」→「ピンクは避けよう」→「押し付けの逆張りが押し付けになっては意味がない。個々人がピンクを好むなら使うべき」というような議論は過去にあったし、実際日本女性学会のサイトは今現在ピンクをテーマカラーとしている。

そのような{男性の美の基準から解放され女性自身の美の基準を謳歌してよい}という主張は決して少ないものではなく、例えば下記ブログでは、その例としてベル・フックス、牟田和恵、田中美津を引用している(ただし、この論説ではその詳細に立ち入ることはなく、{男性の美の基準から解放され女性自身の美の基準を謳歌してよい、という主張は全肯定しうるか、留保がが必要か}という最もシンプルな主題のみを扱う。筆者がこの後展開する議論を迂回するような主張については筆者は関知しない)。

彼女たちの「男の目線は関係ない」という主張は、実証的証拠も存在する――「理想の体型」の男女差である。先に断っておけば「理想の体型」は時代差・文化差があり人類共通の傾向を示すことは難しい。しかしながら、現代先進国においてはある程度共通しており、男性はBMIが標準程度の(=統計的に最も健康的な)女性を好むのに対して、女性は(医学・疫学的に健康を害するとされる)痩せすぎ水準の体型を評価し、自らもそれを目指すことが多い(e.g. Fallon & Rozin, 1985)。

女性にはより細くなりたいという願望がありますよね。ですが、やはり男性は痩せすぎよりは、標準的な体系のほうが好みの人が多いようです。
―― マイナビWoman「モテる理想の体型って?~男性・女性別~

現代先進国の女性のやせ願望は健康を害するレベルにあり、痩せ競争を止めるべく、痩せすぎのモデルを広告で使わないとする規定が作られているほどである。痩せ願望の解析は医学・疫学的にも重要であり、そのため研究例も多く、先進国では女性が女性内の価値観でより痩せた体型を理想としていることは共通した傾向として(少なくともジェンダー論関係の研究では比較的再現性も高い堅い部類の事象として)観察される。

いずれにせよ、男性の価値づけとは独立して、女性自身の視点による女性の美の格付けというものが存在していることは、ほぼ確実である。

女性の価値観に基づく美の追求が女性を追い詰める

しかし、女性の美醜への価値観ならば女性にとって無害かというと、そうとは限らない。美醜序列の中でも最も有害で直接的に命に危険を及ぼす過剰な痩身については、すでに見た通り女性の美の価値観によってもたらされている。男性はむしろ健康的な体型を好んでいるのであり、強いて男性を関与させたとて「女性が想像する男性の価値観」が限度である(Fallon & Rozin (1985)の当時は{異性が考える理想の体型}という、男性の視線が想像上であれ介在するような焦点の置き方をしているが、それ以降も研究は進んでおり、例えば(一般書を多く書いている)ピンカーは女性の痩せ願望は女性内の競争によるものだという立場を支持している)。

すなわち、男性を一切関与させず女性自身の価値観で美醜序列を作ったとて、害――それも命に係わる最悪の害は確実にあり、痩せすぎモデルの登壇禁止という形ですでにアウト判定が出ている。ことこの問題については女性だけで評価しあったほうが有害さが増幅してしまう可能性すらある(もちろん、女性自身の基準による女性の美の評価がすべて有害だと言っているわけではないし、男性の基準による女性の評価より危険だとも言っているわけではない。男性が評価したらしたで性の商品化の問題が付きまとうだろう)。

ここでもう一度、女性が男性の対象としてではない独自の美の基準を持つのは好ましいと主張している記述を振り返ってみよう。

女性美をめぐってこのような変化(小松原織香注:やせた女性向けのファッションが独占的になり、ファッション雑誌がフェミニズム以前のように性差別的になっているという変化)が起こっていることは、まだあまり問題にされていない。
――Hooks, B. (2000) Feminism is for everybody: Passionate politics.
※筆者注:ここでわざわざ孫引きしている(小松原織香氏の注を加えている)のは、筆者の勝手な解釈による藁人形論法ではないと示すためであり、中国古典の訓詁学で標準的な解釈として注ごと引用するのと同じ理由である。

「やせた女性向けのファッションが独占的にな」っているのは、Fallon & Rozin (1985)以降の研究を踏まえれば、男性による女性の対象化より、「女性たちは初めて自分たちの消費の力を知り、その力を使って積極的な変化を引き起こさせ」たことの結果である可能性が高いことは留意すべきであろう。

「女性が女性自身の価値観でミスコンして何が悪い」――女性を死に追いやる競争を煽り立て、女性の健康と人権を害するから悪いのである。世界は規制の方向に動いており、規制される対象が自分自身だと気が付いていないだけの話である。「女性学」第21号の特集にある「美醜ハラスメント」や「美の序列への抵抗」の矛先は《男性の視線》やら《社会の構造》に限ったものではなく、女性自身の美の価値観による序列化に対しても向けられてしかるべきであると考える。

生得的特性による格差に反対する立場として

筆者が「美の序列化」にいい顔をしないのは、「人の美」は個人の努力ではどうにもならない部分が多すぎ(個人の努力でどうにかなる部分を否定しているわけではない)、生まれつきの特徴による差別を許してはならないという近代人権観に反するものだから、という理由も大きい(ただし前述の過剰な痩身は努力によってもたらされるものであるため、努力込みでの美の序列化にも否定的である)。

筆者は《生まれによる格差》(に対する反対)に興味を持っており、例えば《生まれた年による格差》である氷河期問題(e.g.太田, 2010)や生まれた家庭による教育格差(e.g. 鈴木, 2016)についてことあるごとに触れており、《男に生まれたか女に生まれたかによる格差》である男女格差に触れているのもそこからである。そして、美醜格差や、美醜がもたらす経済格差(e.g. Hamermesh, 2011)も、その延長線上にあり、基本的に反対する立場となる。美醜格差問題は性別に絡む影響は当然あるだろうが、性別に関わらない独立した成分もあり、それが人の命を脅かすのであるなら、反対しない理由がない。

もちろん、美の価値観は個人の内心の自由に属するものであり、どう思うかは完全に自由であり、それを表明することも差し支えはないだろう。しかし、それが危険な競争、チキンレースを惹起する性質のものであるならば、(女性のみの価値観であったとしても/あるほど)危険であり、「女性の権利」を推進する立場であれば、「美の序列化」は、たとえそれが女性の価値観に基づくものであっても自重すべきだろうと思わざるを得ないのである。まして、内省した時に「承認欲求を安易に得たい」などという動機が感じられたとしたら、行動は差し控えるべきであろう。



◆ホーン川嶋瑤子 (1993) 言説、力、セクシュアリティ、主体の構築. ジェンダー研究, 2, 3-23.
◆「やせすぎモデルが禁止されるワケ」 読売新聞 2017/11/15
◆Fallon, A. E., & Rozin, P. (1985). Sex differences in perceptions of desirable body shape. Journal of abnormal psychology, 94(1), 102.
◆Hooks, B. (2000). Feminism is for everybody: Passionate politics. Pluto Press.(= 2013 堀田碧訳 『フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学』 新水社。)
◆太田聰一. (2010). 15 若年雇用問題と世代効果. 労働市場と所得分配. 慶應義塾大学出版会.
◆鈴木大裕. (2016). 崩壊するアメリカの公教育: 日本への警告. 岩波書店.
◆Hamermesh, D. S., 2011, Beauty Pays: Why Attractive People Are More Successful, Princeton University Press. (= 2015、望月衛訳『美貌格差:生まれつき不平等の経済学』東洋経済新報社。)



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