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正しく理解する:明治期以降の薩長(6)

西洋人が多く日本を訪れるようになった幕末と明治期ですが、未開の極東の地域と思っていた日本に驚きます

まずは、人の多さと街の発展ぶりです。石造りではない日本の木造建築は見方によれば安っぽいものですが、城や神社・寺院は風格があり、庭園も立派です。次に、庶民の識字率は高く、庶民のマナーや所作も品格があります。江戸時代の武士階級で維持されてきた価値基準が、寺子屋を通して公衆道徳化され非常に民度の高い国民となっていたからです。

しかし、戦争となると大した武器(銃や大砲や軍艦)もなく弱いだろうと思っていました。そんな中で日本は日清戦争で簡単に勝利します。ロシアが東アジア進出をもくろんでいる中で朝鮮の安全確保が日本の安全確保には必要でした。そんな中で朝鮮に影響力を行使したい中国と対立したわけです。アヘン戦争の後の中国は弱いから日本が勝っても当然だと西洋列強はそう考えて言いました。

ところが、その後の日露戦争にも勝利します。これには西洋列強も驚きました。よくよく考えれば、種子島に鉄砲が伝来した翌年には国産銃を開発し、奇抜な方法で火薬まで製造してしまう国民です。さらには戦争を260年間もしてこなかったとは言えサムライの国なのです。これは明治政府が優れていたというよりは、その礎はすべて徳川幕府の江戸時代にできたものです。

この頃から欧米諸国には日本脅威論が芽生え始め警戒します。そして以前にも書いた白人至上主義や優生学、ユダヤ人のシオニズム運動などがつながり、ユダヤ人傀儡政権の米ウッドロウ・ウィルソン大統領からのディープステート支配、白人至上主義のフランクリン・ルーズベルト大統領からの日本排斥や日本占領政策につながります


太平洋戦争後は、1948年の東京裁判でA級戦犯が死刑になりましたが、中には不起訴・釈放された戦犯もいました
岸信介(総理大臣)、児玉誉士夫(闇社会の頂点)、笹川良一(日本のドン)などの政治家・右翼。鮎川義介(日産コンチェルン)、久原房之助(日立コンツェルン)、正力松太郎(読売・日本テレビ)などです。
これらの政治家、活動家、財界、メディアです。財界人は日本の復興のために釈放され、政治家・メディアは米国の傀儡政権やプロバガンダとして利用されました。正力松太郎は民間テレビの導入や原子力政策をめぐってCIAと協力して導入した事実が米公文書のなかで半世紀ぶりに明らかにされています。

特に政治家では1957年の第1次岸内閣から1972年まで第3次佐藤内閣まで、岸信介・佐藤栄作の実兄弟が政権を握り、岸信介の娘婿の安倍晋太郎が1982年から1986年の中曽根内閣の外務大臣となり、さらに晋太郎の息子の安倍晋三が2006年からと2012年の2度のわたって首相を務めました。
GHQの占領が終了し日本は1952年に独立を回復しましたが、今までの71年間のうち31年間は東京裁判で処刑を免れた岸信介一族ということになります。実際には岸家に養子に出たため、もとは長州藩(毛利家)家臣の佐藤家です。郡奉行での事務官などを務めたので中士くらいの家格でした。吉田松陰や井上馨、伊藤博文、木戸孝允(桂小五郎)とも交流があったそうです。

麻生太郎は吉田茂の孫で、吉田茂の義祖父は明治の元勲大久保利通(薩摩藩士)です。吉田茂は1946年から1954年までの間で5回にわたって8年間首相を務めました。岸信介一族と合算すると薩長閥合計で39年間になります。

群馬県出身で薩長閥ではありませんが、中曽根康弘も1953年にキッシンジャーと人脈を築き、1954年にCIAエージェントの正力松太郎に近づき原子力政策を推進し、1967年からの佐藤内閣から入閣し、1982年に首相になっています。また、福田赳夫も群馬県出身で薩長閥はではありません。しかし、1953年に自由党に入党すると岸信介に仕え1958年には政調会長になります。その後佐藤内閣で大蔵大臣の就任、その後1976年に首相に就きます。福田派はその後、清和政策研究会として森喜朗・小泉純一郎安倍晋三福田康夫に引き継がれます。ここまで加えると薩長閥プラスアルファは46年間も首相の座にいたことになります。

ちなみに岸田文雄は広島出身ですが先祖は長州藩士ではなく農業です。しかし、親戚関係に宮澤喜一がいたので宏池会です。池田勇人が佐藤栄作と袂を分かって旗揚げしたのが始まりで、大平正芳、鈴木善幸、宮沢喜一などが首相になっており、財務省など官僚出身者が多いです。


徳川幕府の江戸時代となる関ヶ原の戦い後に120万石から36万石と大幅に減封された西軍の毛利家は長州藩となった後もずっと遺恨の念を持っていたと言われています。吉田松陰の処罰などはきっかけに過ぎないのだと思います。坂本龍馬は大政奉還を成し遂げて、天皇と徳川家も薩摩も長州も土佐も一緒にまとまることを望んでいましたが、徳川を外す計画を知って長州藩士に暗殺されたという説もあります。明治になってからは、欧州視察を終えて感化された大久保利通と対立し、西郷隆盛は西南の役で没します。

背景を正確に知ることは不可能ですが、事実として明治期から現代に至るまで薩長人脈に日本は牛耳られ、その後ろ盾には欧州や米国がいました戦争も彼ら欧米によってに仕掛けられ、戦後も復興は遂げたものの日本は米国の意に恭順する国家となったことが現実です。

今までは、欧米との関係が深く言いなりになる薩長閥政権のメリットも確かにありました。しかし、いつまでもそれで良いのでしょうか?
以下のことを考える必要があります。

  1. 日本で失われつつある大切な価値観も多くあるということ。

  2. 英国の覇権国家の終焉に引き続き、米国の覇権国家として終わりが見えてきているということ。

  3. 資本主義というイデオロギーにも限界が見え始めていること。

  4. その限界感の中で、日本人の他国にない特長が再認識され始めていること。

です。



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