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連載小説 魔女の囁き:1


 思わず、おっ、といいたくなるような内容の報告書だった。そういった報告書が今月に入ってからいくつかあった。すべて、同じひとりの幹部からあがってきたものだった。
 今回私が着目した報告書には、ある自軍の選手の分析が詳細にまとめられていた。今季レギュラーポジションをとった、いま絶好調の二十二歳の野手だ。シーズンがはじまってここまで打ちまくっている。報告書には好調を裏づけるさまざまな指標の数字が並んでいた。その数字に対する個人的な見解のコメントもあった。そこまではふつうの報告書だった。最後にひとつ、その選手の技術的な欠点が指摘されていた。現状のままでは、ごく近い将来深刻なスランプに陥る可能性がある。そして欠点が修正されなければ、今後レギュラーどころか一軍の定着すら危うくなるだろう、と。いまこの選手にこんなネガティブな分析をする人間は、球団内にも球団外にもいなかった。ほんとうにささいな、欠点ともいえないような欠点だ。だが私も、この選手に対しては、この報告書の懸念とまったく同じ見解を持っていた。
 今回この報告書をあげてきたのは、GMである私の直属の部下で球団幹部のひとりの、岩瀬美緒だった。岩瀬は、自軍、他軍、今後プロ入りするアマチュア等、選手を『見る』ことを主に担当している。私が以前べつの球団でスカウト部長をしていたときの教え子だ。
 私がいまの球団でGMに就任する際に、所属球団から引きぬいた。かなり強引な手法を使って。その球団とは多少の軋轢が生じ、軋轢はしこりとなっていまでも残っている。初めから、そうなるのを覚悟で引きぬいた。それくらい、私は岩瀬の選手を見る目を高く評価していた。
 岩瀬は二十代の前半でNPBの裏方の世界に入ってきた。子供のころから野球をやっていて、十代の半ばから女子野球の全日本に選ばれるほど選手としてはエリートだったが、成人してほどなく現役を退いた。将来プロ野球の球団のオーナーになるため選手は早期に辞めたという。当初は球団広報として採用されていた。本人の気の強さや迎合とは無縁の性格からまわりとまったくうまくやれず、当時その球団でスカウト部長をしていた私のところに回されてきたのだ。
 最初はまったく使い物にならなかった。どうせすぐにいなくなるだろうと、配置転換後しばらくはまわりの人間からもあまり相手にされなかった。それが彼女の何かに火をつけたのかも知れない。スカウト部門にきてニヶ月目くらいから、仕事中つねに岩瀬は私のあとをついてくるようになった。だれの指示でもなかった。私はかってについてくる岩瀬にかなり厳しく指導した。陰では何度も泣いていただろう。いまならパワハラで私の首が飛んでいてもおかしくない。そこから本人の努力の甲斐もあって、岩瀬は二年ほどでスカウトとしてひとり立ちした。 
 ひとり立ちして初めの一、二年は突出したものはなかった。業務のすべてが教科書通りで、スカウティングリポートの内容も平凡か平凡以下だった。それが徐々に力をつけていき、五年目あたりで一気にひと皮もふた皮もむけた。選手に対する目のつけどころが、大きく変わったのだ。
 いま思うと、初めの一、二年は私の目を気にして、『置き』にいった選手分析をしていた。あるときから、もともと持っていた野球理論や自身の感性に、選手個々の詳細なスタッツををうまく融合させた独自の理論で選手を分析するようになった。以降岩瀬は急速に能力を伸ばしていき、当初の私の想定をはるかに超える、野球人として卓越した選手を見る目、を持つまでに成長したのだ。
 その岩瀬も、NPBの世界に入ってもう二十年ほどになる。その間、アマからのドラフト指名、プロ入り後の選手の再生、手がけた有名選手は数知れない。いまでは球界でもかなりの有名人だ。
 ドアをノックする音に私は返事をした。報告書の件で岩瀬をGM室に呼んでいた。
「なんのご用でしょうか、土尾さん。いまからひとり選手を見にいく予定が入っていますので、できるだけ手短にお願いします」
 部屋に入ってくるなり岩瀬はいった。岩瀬はいつもの黒のパンツスーツ姿だった。髪型は耳が出るほどのショートで、初めて会ったころから変わっていない。色黒で、化粧は薄い。背はヒールを履くと私と同じくらいだが、仕事のときは必ずスニーカーを履いている。肩からかけたトートバッグには、電話端末のほかに、タブレット端末、スピードガン、双眼鏡、ストップウォッチ、グラブ、硬式球が必ず入っている。そして見たことはないが、球運を祈願するお守りも入っていると聞いたことがあった。
「きのうあがってきた報告書の件だ」
 私はいった。
「それでしたら、報告書にまとめた通りで、それ以上でもそれ以下でもありません。書いてあることがすべてです」
 では、といってGM室をでていこうとした岩瀬を引き止めた。私は苦笑した。昔から気は短かった。髪型同様、それはいまも変わっていない。
「まあ、待て。報告書に不備があるわけじゃないし、内容に異論があるわけでもない。むしろ私もあの選手に対しては同じ意見なんだ」
 岩瀬が止まった。
「報告にあった内容を、対象の選手と直接合議したいと考えている。岩瀬にも同席してもらいたい」
 通常、球団上層部が直接選手に技術的な指摘や指導をすることなどほぼない。いまは現場のコーチや監督ですら、指導者側からのやみくもな指導はほとんどやらない。よほど基本的なことや常識的なこと以外、選手側から何かしらの働きかけがあって、初めて指導者側が動く。若い選手たちを客観的に見守もり、気持ちよくプレイさせるのも、監督やコーチなどまわりの大人たちの仕事なのだ。
 ただ、今回はちがった。選手の年齢、資質、将来への期待など総合的に考えた上で、この早い段階で上層部からの直接の指導がいいと判断した。それがわかっているからこそ、岩瀬も今回私にこの報告書をあげてきたのだろう。
「わたしの同席、必要ですか」
「ああ、いたほうがいいな。監督と打撃コーチも同席させる」
「わかりました」
「できるだけ早いほうがいいだろう。監督には私から連絡をとる。日時は追って連絡する」
 岩瀬はうなずいた。
「ところで、きょうこれから見にいく選手とはだれなんだ」
「じつは半年くらい前から目をつけている選手がいまして。ある地方の高校生のピッチャーです」
「私も知ってる選手か」
 岩瀬は首をふった。
「知らないと思います。甲子園にはでていませんし、今年の県大会も一回戦で負けています。正直いま投げている球はそれほど凄いというわけではありませんが、体が大きくてしなやかでとても将来性を感じる子です。まだ一年生なので、もう少しじっくりと見て内容をまとめたら、スカウティングリポートをあげます」 
 話を聞きながら、私はふとべつのことを思った。岩瀬の将来の目標。いつかプロ野球の球団のオーナーになる、というやつだ。昔はことあるごとに口にしていたが、いまの球団に幹部として引き抜いてからはほとんど聞いていなかった。現在岩瀬は実質球団のスカウト部門のトップの立場にいる。現状の、球団を運営する側の上層部のひとりとなったことで、オーナーになるという目標をよしとしたのだろうか。
「では以上でしたら、これで」
「岩瀬」
 背なかを向けかけた岩瀬がふりむいた。急いでいるのにまだなにか、といいたげに眉がぴくりと動いた。
「最近あまり聞いてないが、いまでも将来の目標は球団のオーナーになることなのか?」
 岩瀬は半身の姿勢のまま、なにをいまさら、といった。
「もちろんです。わたしはいつか必ずプロ野球の球団のオーナーになります。そのときは、土尾さんをGMに雇って目一杯こき使うので覚悟しておいてください」
 岩瀬は白い歯を見せてにこりと笑うと、「では」といって足早にGM室をでていった。 
 もしこの場にほかの幹部連中がいたら、恩師に向かって生意気な口をきくなと、まちがいなくたしなめられていたはずだ。
 だが私は、こういった岩瀬の遠慮のないものいいが、なぜか昔から嫌いではなかった。


 二日後、関係者全員がGM室に集まった。

 

 続 魔女の囁き:2


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