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連載小説 hGH:2


 翌日、球場にきていた井本をGM室に呼んだ。球団事務所と球場は目と鼻のさきにある。詳細は伝えていない。柴田とふたりで迎えた。
「すまんな、井本君。復帰にむけて調整してるところを呼びだして」
 私はいった。シーズン終了後も、井本は毎日球場にきてリハビリメニューをこなしていた。いまも練習着姿だった。明らかに用件を勘ちがいしている。来季の契約の下交渉とでも思っているのだろう。表情には、緊張も警戒もなかった。
「まあ、座ってくれ」
 三人でソファについた。テーブルを挟んで井本とむき合った。柴田は私の横に座った。井本はカフェインをとらないと聞いている。秘書が、果汁100%のオレンジジュースとコーヒーを置いていった。そのグラスとカップをテーブルの端によけると、柴田がドーピング検査の結果の書類をテーブルに置いた。
「来季から監督をやってほしい」
 私はいった。井本はまだわかっていなかった。検査結果をあらたな契約書か何かと思っているようだ。にやりと笑った。
「プレイングマネージャーですか。魅力的な話ではありますが、もうすこし待ってもらいたい。あと一、二年は選手に専念したいので」
「よく見るんだ」
 柴田がテーブルに置いた書類を突きつけた。井本が手にとった。井本の顔色が変わっていくのが、はっきりとわかった。
「これは要請じゃない。井本君、きみは今季で選手を引退し、監督に就任する。球団としての決定事項だ」
 私はいった。
「ちょっ、ちょっと待ってください。そんな、いくらなんでも。話が勝手だし、急すぎます」
 井本は早口にいった。額に汗が浮かぶのが見えた。
「勝手でも急でもないな。きみはもうずいぶん前から規定違反の薬物であるhGHを使用しているんだ。むしろわれわれが気づくのが遅すぎたぐらいだ」
 hGHという言葉に井本は反応した。しばし黙った。それから、絞りだすように口を開いた。
「こんな検査は違法だ。認められない」
 そんなことはわかっていた。その上で、私も腹をくくったのだ。
「受け入れなければ調査結果と検査結果をメディアに流す。球団としても甚大なダメージを受けるが、われわれには心中する覚悟がある」
 NPBでも血液を使ったドーピング検査がはじまっている。尿だけの場合、血液だけの場合、その両方の場合。全体から見れば。まだ年間を通しても対象選手はごくわずかだ。井本が血液での検査を受ける確率は、かなり低い。だが万が一、血液検査の対象に選ばれれば、使用が発覚する可能性は高い。今回私が踏みきった理由のひとつにそれがあった。
「すこし考えさせてください」
「だめだ、いまここで決めろ。いったん持ち帰るというなら、拒否とみなして即刻hGHの使用をメディアに流す」
 柴田が契約書と誓約書をだした。
「これにサインするんだ。すべて承諾するなら、hGHの件はなかったことにする。少なくとも、われわれ球団側からこの話は二度としない」
 契約書は監督としてのものだった。誓約書はhGHに関しての球団と井本とのとり決めだった。
「もう一年だけ、プレイさせてください」
 井本には、あと一年やれば達成できそうな記録がいくつかあった。それを達成すれば、引退後の箔がつく。その箔があるかないかで、将来の生活ががらりと変わることもある。
「わかった。それでおまえの名声が地に落ちていいなら、好きにしろ」
 井本は下をむいた。
「おまえにとっても悪い話じゃないだろう。いままで積みあげてきた栄光を汚すことなく、青年監督としてあらたな野球人生を歩めるんだ」
 井本が顔をあげた。
「どうしてもプレイングマネージャーは」
「だめだ、あきらめろ。おまえの自業自得だ。気持ちを切りかえて今後は指導者の道を進め」
 選手も兼任であれば、ドーピングの影はどこまでもついてまわる。引退した上で監督にならなければ意味がなかった。
「ですが」
 堂々巡りだった。
 それでも、われわれは根気強く説いた。食事もとらず、対話をつづけた。中断は、それぞれがトイレに立つときだけだった。井本が席を離れるときは携帯電話を置いていかせた。いないとは思うが、協力者がいると面倒な事態になりかねない。
 夜も更け、柴田がトイレに立ってふたりになったときだ。理不尽は承知で、私は井本に子供の話を持ちだした。井本には、中二と小六の男の子がふたりいる。どちらも多感な時期だ。そこを突いた。
「なあ、井本。家族の今後のことも考えれば、おまえに選択の余地がないのはもう充分わかっただろう。そしてこうなった以上われわれ球団側にも退路はないんだ」
 井本が契約書と誓約書の内容を承諾し、それにサインをしたときには、すでに日づけが変わっていた。最後に書類をあらためると、井本は疲れきった顔で立ちあがった。横に座る柴田の顔にも色濃い疲労があった。私はいった。
「会見は三日後にやる。引退と就任は同時だ」
 わかりました、とかろうじて聞こえる声で返事をして、井本はGM室をでていった。その背なかは、きたときよりもひとまわり小さくなったような気がした。
 柴田も辞去してひとりになると、私はソファの背もたれに体を預け、大きく息を吐いた。
 契約書と誓約書にサインさせたことで、われわれの今日の会談の目的は達成した。これで、二季に渡って憂慮しつづけた懸案事項が解決にむかって大きく前進した。
 井本をふくめ、よほどだれかがおかしな動きをしないかぎり、ここから事態が大きくもつれることはないだろう。
 ただ、あらためて気づき、苦笑した。
 きょう一日話しをして、井本の口からhGHの使用を否定する発言はまったくでなかった。長年ドーピングに手を染めていたことに対する謝罪の言葉も、ひと言もなかったのだ。
 私はソファから立ちあがってデスクに移動した。
 パソコンを開くと、球団から公式にだす声明文の作成と、三日後におこなう井本の会見の場所と時間の調整に、ひとしきり没頭した。



 怪我が治らないということで押し通した。



  続 hGH:3



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