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[33歳]Work As LifeからWork Life Balanceへ。私から私たちへ。

誕生日前後に振り返りnoteを書くことを始めて早5年。気づけば社会人10年目。もうすぐ33歳。

社会人1年目からの日記を読み返してみると、具体的なやりたいこと(ex. 教師になりたい・独立したい・大学院に行きたい、など)に関することは変化しているけれど、根本的で抽象的な大事にしたいこと(ex. 家族を大切にしたい、大切な人と穏やかで優しい人間関係を築きたい、など)は結局一貫しているんだなと気づく。「やりたいこと」は環境の変化や社会からの刺激(人、物、広告など)で変化する。一方、根本的な大事にしたい「価値観」は変化することは少ないのかもしれない。

そんな日記を見ながら社会人10年をざっくり振り返ると、良くも悪くも「具体的なやりたいこと」にこだわった10年だったなと思います。

良い意味では、自分が大学くらいの時に流行った「やりたいことリストを書き出して実現する」というプロセスを「やり切った」こと。20代の時に書き出した「海外で働く」「世界20カ国以上旅する」「教師になる」「独立する」「大学院に行く」。最後のピースであった「大学院に行く」も今年度で修了予定で一つの物語が終わったような感覚です。

このプロセスを通じて、人生の歓びは「やりたいことをやる」だけじゃないと、よくわかりました。むしろ、具体的なやりたいことの実現は一過性の満足であることが多く、人生にとって本質的な価値ではない。

「自分の意志」で決めたと思っている「やりたいこと」は、実際には周囲や世の流れに多大に影響を受けている。「やりたいこと」に固執するのではなく、もっと根本的に自分に根付いている「ありたい状態」を大切にし、さらには偶発的な出来事や他者との対話から生まれる「私たちの意志」に意識を向け、味わう自身のあり方にこそ、継続的な幸福感があるのではないか、そんなことを考えています。例えば「大切な人たちを大切にできていると感じられている日々」「他者との対話を重ね、調和が取れている状態」など、抽象度の高い状態で定義されることだと思う。「具体的な手段」は本質ではない、といまは思える。

やりたいこと、は何百年前のご先祖様と違うだろうけど、ありたい状態は同じかもしれない、なんて考えます。そう考えると、ありたい状態こそが大事な気がしてくる。

また、知識のインプットと様々な環境・役割での経験知もある程度蓄えられ、世界観や人間観の深まりとともに「こだわり」が良い意味でなくなってきました。特に、MBAの「経営哲学」の授業で、資本主義の理解のために、アダム・スミスからフランスの現代哲学者・コントスポンヴィルなど幅広く読み、人間の欲望や倫理観、欲望を制御する装置としての資本主義、倫理観か必要であることを提示する現代社会の秩序などなどをインプットできたことは大きい。

最近、久しぶりに会った友人に「肩の力が抜けたね」と言われたのですが、逆にいえば、肩に力が入り過ぎてた10年でもあったんだろうなぁと思います。今振り返っても「具体的なやりたいこと」を原動力に行動を続けた10年には全く悔いはないけれど、次の10年を同じスタンスでは送りたくない。というか、すでに送れない自分になっているんだろうなぁと思います。

10年前に「やりたいこと」型のスタンスになったのは、人との出会い。そしていま、時間や人との関係性を重視する「ありたい状態」型へシフトしたいと決意できたのも、結局、人との出会い。自分の人生のキーパーソンに感謝しつつ、テーマを「社会人10年目のライフシフト」として、どのようなスタンスに変えていきたいのか(変わってきている自分をどう認識しているのか)言語化しておこうと思います。

簡潔に言うと、well-doingからwell-beingへ、work as lifeからwork life balanceへ。

①「Work As Life」から「Work Life Balance」へ

ワークアズライフとは仕事を生活の一部と捉える考え方で、ワークライフバランスは仕事と生活を明確に区別する考え。

2014年に社会人になった自分は、「好きなことを仕事に」という時代の流れの中で、ワークアズライフ的な生き方が憧れられるような時代に生きているように思う。

約5年前に自身で創業してからまさにワークアズライフの日々でした。仕事と生活は常につながっていてストレスなく充実感で溢れる日々。しかし、2〜3年経つと、そのような状況の中で生き苦しさを感じ始めたのです。それは物理的・精神的に仕事と他の時間を切り離すことが難しく「仕事のための◯◯」となりやすく、非常に偏りのある人生になっていく危機感があったからだと思います。「仕事に役に立つか」そのために「なにをするか」で物事を捉えてしまう癖がついてしまったのです。でも、人生の豊かさは仕事だけではない。

いまはむしろ、ワークとライフの時間を明確に区別する方が、多様な豊かさを享受できるのではないかと感じています。もちろん、ワークでの学びや人間関係がライフに良い影響を及ぼすこと、ライフでの学びがワークに良い影響を及ぼすことはあり、むしろ意識的にやっていきたいことではあります。けれども、それを目的にしない生き方をしたい、と思うのです。

②「自分はどうしたいのか」から「私たちはどうしたいのか」へ

「自分の意志」は社会や他者、周囲のコミュニティの影響を多大に受けています。何が「本当の自分の意志」なのかは難しい。先述の通り、「自分の意志でやりたいこと」をやったところで、一過性の満足だったりします。むしろ、プロセスから得られる人間的成長の方が価値があって、なにをやるかはあまり重要ではない気もします。加えて、「自分の意志」にこだわると妙な執念が生まれることもあります。その結果、逆に社会や他者と調和できず厄介者になりかねない。「あなたはどうしたいのか」が問われる時代ではあるけれど、「私の意志」にこだわったところで本当に幸せになれるのかは怪しい。

そんなことを漠然と考えていたところ、京都大学の出口康夫教授の素敵な記事に出会いました。

「わたし」としてではなく「われわれ」として生きていく
(中略)
「わたし」と「あなた」は別々の「自己」で、「わたし」が「あなた」に何かを委ねることによって行為がなされる、と考えるのをやめるということです。「わたし」も「あなた」も1つの「自己」を構成している要素であるという概念で世界を捉えることが、協調的行動や倫理的規範といった社会の問題、さらには孤独感といった心の問題を解決していく上で、大きなブレイクスルーとなると考えています。
(中略)
そう考えることで、行動が「わたし」の中で完結した独りよがりなものから、対話を基軸としてそこから行為を選択するスタイルへ変化します。そのほうが人はより深く考え、他者に配慮することができるのではないでしょうか。

出典:https://furue.ilab.ntt.co.jp/book/202002/contents1.html

『「わたし」としてではなく「われわれ」として生きていく』とても素敵な考え方だなと思いました。まだまだ未熟な自分はあらゆる場所でそう考え切ることはできないかもしれないけれど、まずは大切にすべき身近なところから、「私がどうしたいのか」ではなく「私たちがどうしたいのか」という視点に立ちたい。「自分の意志」という実は色んな物事に影響を受けていて捉え所のないものに固執するのでなく、自他との対話を重ね「私たちの意志」が「自己」であるという世界観の中に自分を位置付けていけたら、より幸せになれる気がします。

「共通項を抽出する」から「共有モデルを描く」へ

『「わたし」としてではなく「われわれ」として生きていく』ために必要なことは、対話→受容→変容だと思っています。めんどくさがらずに対話を重ねて、相手の考えを受容し、自己の中に取り込み、自分を変容させること。家族であっても、自分と人は違う。違いを理解する努力とともに理解できない部分があることを認識し、自分の器を広げる努力をすること。その繰り返しで、人との調和が取れるようになり、成長し、強く優しくなれると思います。

対話→受容の一つの手段として、6月にLEGO®SERIOUS PLAY®のファシリテーター資格を取りにいったときに出会った「共有モデル」が頭に浮かびました。

例えば、2人のパートナーが対話をするとする。一方の意志や考えを別個のものと考えると「共通点を見出す」あるいは「一方が妥協する」ということになる。ベン図の重なりで生きていくイメージ。

一方、「共有モデル」では二人の意志や考えを二人のものとして共有された全体。このすべてが「私たちの意志」であり「私の意志」と捉えるようにお互いが自己を拡張する努力をする。もちろん、どうしても意識が合わない部分や話してみたら不要であったと思える部分も出てくるので、対話を重ねる。お互いを深く理解し、また二人の関係によって生まれる拡張した自己を深く理解する努力をすることで、より深く、より良い関係性を育める。

共有モデルを作る際には人数が増えれば増えるほど、当然難しくなります。いきなりすべてとは言わないまでも少しずつでも、対話による「違い」の理解を促進し受容することを通じて、自己を拡張していくことが個人の人生としても集団の人生としても豊かなものになると思います。全く簡単なことではないけれど、挑む価値のあることだと思います。

「自分の理想を語る」から「他者の正義に耳を傾ける」へ

私が本当に恵まれているなと感じることは、これまでとても多様な人の世界観・価値観・人生観に触れる機会に恵まれたことです。大企業・地方の学校・NPO・メガベンチャー・独立、様々な場所で仕事をさせていただき、本当に多様な方々の考えに触れることができました。マクロには「社会はどうあるべきか」みたいな話もあれば、ミクロにはもっともっと単純に「日々の時間の使い方のあるべき像」まで、さまざまな価値観に触れました。

ダイバーシティが叫ばれる昨今、性別・国籍・年代の違いによる価値観の違いに注目されるようになりました。でも、議論されるダイバーシィティの多くの解像度はまだまだ荒いと思います。コミュニティ単位、一人単位であらゆる物事に対する価値観や捉え方は違います。同じ言葉で表現し「共感できた」と思っても、その具体を確認すると粒度や大きさが違ったりもすることは日常茶飯事。

この10年、自分の理想を語りすぎたなという反省があります。しかも、その理想が幻想であったという反省もあります。「共有モデル」を描く上で、もっともっと「他者の正義」に耳を傾けないといけないと感じる日々です。

一方で、難しい「私たち」に固執しない。

同時に大事にしたいことは、共有モデルができない相手がいても固執しすぎずにそっと手放し、相手の幸せを願うこと。特に、物理的な時間の制約のある人間関係や元々の人間関係の問題、相手の特性等で対話ができない状態が数ある人間関係の中には存在します。仕事を通じた関係性はそのような場合が少なくありません。

理想論としては、出会うすべての人と向き合えれば良いけれど、特に時間の制約で現実的には難しい。自分の時間は限られています。馬の合わない人もいますし、共有モデル的な発想を望まない人も少なくありません。そのときに無理に「私たち」を作ろうとしてもうまくいかないでしょう。その場合は、考えの違いを受容し、それも含めて「私たち」と捉え、固執しないこと。加えて、相手の幸せを願うことができれば良い。

一人ひとりが自分の人生の物語を生き、まったく違うレンズを通して世の中を捉えている前提に立ち、人の人生を批判しないこと。そんな姿勢で心穏やかに生きていきたいな、と思っています。まずは、考えの多くを共有できている自分の身の回りの大切な人と「共有モデル」を持つことができれば、万々歳。肩肘張らないことも大切です。

③「やりたいこと」から「ありたい自分(状態)」へ

今までの「やりたいこと」を起点としたDoing志向の行動パターンから、「望ましい状態」を起点にしたBeing志向の行動パターンへ移行していきたい。

例えば、人との関わりであれば「対話ができている状態」「相互尊重できている状態」「私ではなく、私たちを自己と捉えられている状態」とか、仕事で言えば「新しい視点が得られている状態」「出来ないことにチャレンジしている状態」とか。出来事や結果に一喜一憂するのではなく、日々の出来事を味わいたい、と感じる日々です。

一方、「やりたいこと」がないと物事が前に進まなかったり、面白みがなかったりもする。そのため、「やりたいこと」vs「ありたい状態」ではなく、「ありたい状態」の上に「やりたいこと」が乗っかってくれば良いと思っています。

また、上述の通り、「やりたいこと」は「私がやりたいこと」よりも「私たちがやりたいこと」を大切にする。「ありたい状態」も同じく「私たちがありたい状態」を大切に。「私」は内省して自分の心の声に耳を向けるプロセスですが、「私たち」を創り出す(言語化する)プロセスは、自分だけでなく他者の心の声に耳を向け、自他を理解する努力をすると同時に、関係性の中で生まれる「私たち」を丁寧に見つめ、対話を繰り返し、調和することだと思います。だから、「私のやりたいこと」ではなく、「だれかとともに、私たちのやりたいこと/ありたい状態に向けて歩んでいる状態」がいまの自分の「ありたい状態」です。

④「自分でつくる」から「波や流れに乗る」へ

とにかく「やりたいこと」起点で動いてきたこの10年は、自分でイメージしたことを形にすることにこだわってきました。スケールが小さかったこと、また運や仲間に恵まれたこともあり、満足いく程度に形にできました。

一方で、物事には流れがある、とも理解しました。マクロには、社会の風潮や価値観の変化。ミクロには、人の感情や環境の変化。自分の考えだけに固執して、自分ではコントロールできないことに躍起になっても変えられないものは変えられない。特に、私は教育に関わり一人ひとりと向き合ってきて、自分の理想が必ずしも正しいわけではなく、また理想ではなく幻想であるかもしれないと反省することもありました。「自分がやりたいこと」そして「自分でつくること」にこだわることは、「自分の理想を押し付ける」ことにもつながりやすい。短期的な理想を持つことは、自分の人生にとっても社会(他者)にとってもむしろ危険なこともあると考えるようになりました。これは教育の分野、また仕事に関わらず、あらゆることに言えることだと感じます。

だから、短期的に何かを変えようとするよりも、社会や人を理解し長い時間軸の中で適切な「波や流れ」を見極めて、「波に乗る」生き方をできるようになりたい。合わせて、マクロには社会のため、ミクロには目の前の相手のために、長い時間軸の視座に立ち、波に乗って進んでいくべき方向性を示せる人間になれるといいなとも思います。

⑤資本主義に人生全体を支配されないように

大学院の全授業の中で、最も視座を上げてくれた授業は経営哲学です。

小〜高の学校教育では、知識のインプットにとどまらず、人としての心を磨く時間として、総合的な学習や道徳の授業(あるいは学校行事や掃除の活動なども含む)があります。同じように、我々大人も、テクニカルなビジネスノウハウばかりではなく、哲学・道徳の授業が必要であると心から思わせてくれた授業でした。

それは社会を良くするという大層な目的だけでなく「一人ひとりが豊かに生きるため」です。子どもたちが気づくと盲目的に「テストの点数」や「学歴」を追いかけているのと同じように、我々大人も気づくと「金銭」や「地位・名声」、ビジネスやキャリアの成功「だけ」を追いかけがちかもしれません。子どもも大人も経済的な付加価値や生産性に紐づくパフォーマンスに支配されがちだと思います。

もちろん、我々が豊かに生きるためには「経済」と向き合うことは欠かせません。一方で、人の生きる歓びは、それだけではなく、他者との関係や他者への貢献から感じられるものでもあります。芸術に触れることや自然に触れること、趣味に没頭することもそうだと思います。そこには、生産性は求められず、むしろ、非効率的な関わりから生まれるなにかだったりします。そんな経験値からの当たり前を、哲学的なレンズを通して見つめ直し、生き方を見直す機会になりました。

中でも、フランスの現代哲学者・コント=スポンヴィルの「資本主義に徳はあるか」は社会や自分を見つめるレンズの解像度をグッと高めてくれました。

何が許されて、何が許されないことなのか。
社会には、①経済-技術ー科学の秩序 ②法-政治の秩序③ 道徳の秩序④倫理の秩序(愛の秩序)の4つの秩序があると言います。具体的には、①は儲かるからやった方が良いとか技術的に可能だからやって良いという次元 ②は法律で認められているからという次元 ③は道徳的に許されることのなのかという次元 ④は愛を起点にすべきかすべきでないかを判断する次元(書籍の中では③④は行動そのものは同じ方向に向かわせるが起点が義務感なのか愛なのかによる違いといった説明がなされていた)。現代人は、この4つの秩序を混同してしまっているのではないか、と。

また、アダム=スミスの「道徳感情論」や前田英樹の「倫理という力」などでは、道徳の秩序や倫理(愛)の秩序の次元で行動することが歓び・幸福につながるという経験から来る直感を説明してもらった感じがしました。

社会学者の宮台真司氏は「法の奴隷」「損得マシン」「言葉の自動機械」へと人間が劣化していて、それを乗り越えるには、「贈与の精神」「友愛」が大事だと述べていて、とても共感しています。

資本主義の弊害は、人々が経済や法の次元だけで物事を考える癖がつきすぎてしまうことではないかと思います。人々があまりに経済的成果だけを求めて、ルールに基づいて合理的に判断する癖がついてしまっているように思うのです。生産性、コスパ、タイパを求める社会は、経済の背後にある世界をじっくり見つめる機会を奪ってしまう。

でも、それを強く求める経済活動の中では(特に株主が強くそれを求める上場企業のような環境では)致し方ないことでもあるとは思います。一方で、その考え方に個人の人生すべてが支配されてしまうと、広く深く存在する生きる歓びを味わうことなしに人生が終わってしまう危機感があります。

だから、個人的には、まずライフとワークをあえて切り分けて、経済的な生産性や付加価値にとらわれない豊かさ(根本的には愛)を求めるライフの時間を持つことがとても重要だと考えています。もちろん、ワークでも経済と愛の調和を求めていくべきだと思っていますが、資本主義社会の中に存在する仕事は究極的には生産性・付加価値を求められるため、職種や環境によって、その調和が難しい世の中であることは事実だと思います。時間制限が厳しくマークシートで答える共通テストに、自分の思考プロセスや考えを丁寧に記述して評価してもらうような感覚です。そんな時間も余裕もないのが、共通テスト、そして、経済活動の実態だと思います。余談ですが、子どもの教育環境が資本主義的発想に支配されつつあることにもまた危機感を覚えます。

自分で会社をやっていてとても強く感じてきたことですが、(特に社外、かつ上場企業や上場を目指す企業の)友人と一緒に仕事をする難しさはここにあります。会社や組織によって生産性や付加価値に対する意識が全く違うためです。上場企業であれば、株主は資本の拡大を目指す訳ですから当たり前のように生産性や付加価値の向上が上位目標なりますが、オーナー経営の企業であれば、オーナーの価値観で決まるため必ずしもそうではないわけです。「お互いが調和したと言える状態」になるには、途方も無い対話と自他の理解が不可欠で、スピードが求められる資本主義社会ではそんな余裕がないのが現実です。

だから、求めていくべき理想像であるとは思うけれど、無理に抗うと疲弊してしまうでしょう。そんな資本主義社会の前提を抑えることも、社会の中で生きていく上では重要です。
グッドニュースは、資本主義と人の豊かさの調和を求めて経営の中でもwell-beingやワークライフバランスなど、人の豊かさに注目する時代になってきたこと。議論の出発点は、生産性や付加価値向上のための、であると思われますが、それでもグッドニュースだと思います。
自分が違和感を持つように、資本主義が加速する歴史の中で、実際に社会の中で歪みが出てきているということだと思います。その歴史を抑え、その波を見極め、その波に乗るところから考えていきたいものです。資本主義に抗うのではなく、社会の変化の波にうまく乗り、資本主義社会と個々人の人生全体のバランスをうまく取ること。

まずは自分のライフが資本主義的発想に支配されないことがとても重要だと思っています。ライフまで、①経済-技術ー科学の秩序 ②法-政治の秩序のみで判断すると「損得マシーン」化していくと思います。経済や法律の次元を超えて、人として何をすべきなのか/すべきでないのか、さらに高次の次元として、相手のために何をすべきなのか/すべきでないのかがあり、そこには一段上の豊かさがあると思います。

だから、友人関係や恋愛・結婚すらもコスパで語られることを耳にする寂しい時代、資本主義的発想がライフを侵食するこの時代にこそ、コスパを度外視した人間関係やライフが重要だと思います。経済-技術ー科学の秩序と法-政治の秩序は、数値とルールとの照合で説明できるわかりやすい次元だから、簡単にライフを支配しようとしてきます。だからこそ、「損得」(経済合理性やルールを守るという義務感)の次元を超えて、他者(社会)も含めて愛を起点とした倫理の次元で物事を考え判断する思考回路、「贈与の精神」を常に持ちたいもの。特に、ワークの外にあるライフの中での身近な人間関係は必ずそうしたいと思っています。社会に対するビジョンが小さいかもしれないけれど、まずは仕事の外にある個人のライフを丁寧に。丁寧に生きているつもりではあったけど、もっともっと丁寧に。

「Work As Life」から「Work Life Balance」へ、私から私たちへ、ライフシフトを強く意識するようになったお話でした。

#ウェルビーイングのために

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