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るしあんちゃーい

スパイスの香りがふんわりただよう
熱々のアップルパイにはたっぷりのバニラアイスが添えられて、
つやめく赤いイチゴジャムを
スプーンですくってパクリと口に入れても怒られない。
そんな楽園があることをはじめて知った時、
私は小学生だった。
じゅわっと油のしみたピロシキも、
触るのをためらうほどに熱々のつぼ焼きも、
楽園だけで食べられる特別な食べ物だった。

楽園の名をすうぷ屋という。
片田舎では珍しい‥‥いや、たぶんここらでは唯一のロシア料理店。
本でしか見たことのない『マトリョーシカ』が
こけしのように置いてある異空間。
メイン料理のつぼ焼きには、
「大きいつぼ焼き」と「小さいつぼ焼き」があって、
大きいのを頼むとおなかがいっぱいになっちゃうけれど、
小さいのじゃすこし、ものたりない。
ビーツでがっつり作ったボルシチは、
何回食べても頼んだ時に思ってた味とちがう。
くるしくなるほどおなかいっぱい食べるだけ食べて、
ジャムをなめなめチャーイを飲んで、
小さな私は車に乗った途端にこてんと寝てしまうのだ。
しあわせな楽園の記憶。

思い出を食べに来てんのかなぁと、
メニューを見ながらふと思う。
私が大人になった分、街も様変わりして、
お店の場所も変わって。
すすけたチェブラーシカとプーチンのマトリョーシカが
棚の上からこっちを見ている。
小さなつぼ焼きのランチにしよう。

窓から見える道のきわには雑草が繁っていて、
明るい光の中で見るテーブルは古びて、
楽園の記憶は、遠い昔のことだなぁと改めて思い知る。
サイドメニューのピロシキとサラダが出てきて、
ピロシキもなぁ‥‥
あの頃は本当に珍しい食べ物だったよなぁ‥‥
あちっ。
マスタードのソースとケチャップをつける。
あちっ。
‥‥うっま。


さっきまでピロシキがあった場所を
うらめしそうにながめることしばし、
キッチンからパン生地で蓋をされた陶器のスープ碗が出てくる。
スプーンでトンとパンの表面をたたくと、
ふわっと湯気があがる。
イーストとゴマの香りのする湯気がもうおいしい。
えいっとそのままスプーンをつっこむと、
とろっとしたクリームシチューが顔を出す。
今日は「細切りチキンときのこたち」にしたので、
中身はチキンときのこだ。
あちっ。
蓋になっているパンを手で割ってスープにひたす。
あちっ。
よく焼けたゴマがおいしい。
あちっ。
フチになっていたカリカリのパンがおいしい。
こってりしたスープがしみたパンがおいしい。
底の底までグイッとぬぐって食べ切る。

食後、
チャーイが運ばれてくる。
紅茶に添えられた大きなコップには
たっぷりのイチゴジャム。
透き通るような艶のある、真っ赤ですてきなジャムを
好きなだけ小皿にとって、すくいながら紅茶をすする。
はっきりすっぱいジャムがのどにおちてゆく。
ああよかった。
楽園はまだここにある。

大人になってしまったので、
帰りは自分で運転しなきゃ帰れない。
後部座席に小さな私が寝ているような気がして、
ちょっとバックミラーをのぞく。
ああそうだ。
バニラパイを久しく食べてないじゃないか。
またこなきゃね。
寝たフリをしながら、にやりと笑う
小さな私が見えた気がした。


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