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牧之原大茶園と協力平

小学校の社会の教科書に今でも紹介されているのかな?
私の生まれ育った静岡県牧之原市にある大茶園の話。

「この巨大な扇風機は一体何の為に立てられているのか?」
テストに出題される”防霜ファン”と呼ばれている物体。
春先に芽吹く緑茶の新芽が、早朝の霜に負けないように、
気温の低下を感知して自動でブンブン回りだし風を送る。

温暖化の近年には、必要性に疑問も抱きたくなるが、
かつては、行政から多額の助成金を引っ張れるほど、
静岡の緑茶生産量は日本一を誇り、盛り上がりを見せていた。

元々、明治維新後、江戸で活躍した武士たちが指揮をとり、
新たな就業の場として、荒れ野原だった台地を開墾した。
17代続く私の実家の先祖も、その一員であり、現在は、
15代目の父と16代目の兄が、低迷期の中、茶園を守っている。

茶業を営んできた実家の歴史だけ見てみても、17代の間には、
幾多の困難も乗り越えてきたことがうかがえる。
高祖父の代では、神奈川県の秦野市に事務所も構えて、
貿易を手掛けていたようであるが、関東大震災で倒産した。

太平洋戦争中には、この今まさに私が住む布引原の地に、
大井海軍航空隊の飛行場が建設され、終戦間際には、
航空隊から、白菊という練習機での特攻隊になっていた。

飛行場建設に伴い、学校も解体されることになり、
地域住民が、バラバラになることを懸念して立ち上がり、
新たに設立したのが、現在の牧之原小学校と中学校。

協力平と名付けられ、以来ずっと語り継がれている。
私の母校ではないが、息子2人が、こちらにお世話に
なったのも、何かの縁に違いないと思っている。

その他にも、曾祖父の弟は、近衛兵として満州へ渡り、
終戦後、命からがら逃げ帰る途中、長男を亡くした。
帰郷し、悲しむ間も無く飛行場のコンクリートを剥がし、
”開拓”と呼ばれるようになったこの地に所帯を持った。

姉、兄、私の3人兄弟の中で、私が一番、遠く離れると
両親、特に父は潜在的に何か感じていたようで、
「この美しい故郷を思い出すように…」と願いを込めて
『美里』と名付けられた。

思い出すに留まらず、子供2人連れて出戻ってきて、
住み着いてしまったのだから、そこはもう笑うしかない。
茶畑しか広がらない…嫌で嫌でたまらなかった故郷。

いったん離れて戻ってみると、その良さがわかってくる。
山の寒暖差に耐えるからこそ、味がのる静岡茶。
霜降りる冷たさを乗り越えるからこそ映える新芽の黄緑。

温暖化以外にも、日本人の緑茶離れ、海外からの輸入茶、
高額機械化、後継者不足等々、茶園を守り続けることは
そう容易くなく、困難を極め、農家は頭を抱えている。

それでも、先祖代々受け継がれてきた汗と涙の染み込む、
魂の眠る場所、牧之原台地の茶園は、遺していくべきで、
何も持たない、出来ない私が、嫁ぎ先の大阪から15年前に
呼び戻された”使命”のひとつであろうと、今は考えている。

なにものにも奪われない、”教育”のお手伝いを、学習塾
という形で、地域の子供たちの為に始めて早2年が経つ。

“住めば都”の、この牧之原の魅力を、どんどん発信して、
観光や移住を全国に、世界に、広めていく夢を叶えよう。

春から夏にかけての茶畑が美しく冬は地味ですが…見渡す景色が変わらな過ぎて迷子になります笑


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