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バスク人に口説かれた話



昔々のハタチの頃、

年齢  30歳
身長  197cm
職業  ビジネスコンサルタント
性格  漢気、コミュ強
顔立ち ザビエル
髪型  ザビエルの短髪

に口説かれた事がありまして。

語学学校の夏期講座で
生徒の年齢も国籍もバラバラなクラスにいた人。

自国の食材テーマにフリートークをした時
「ワカメは髪を黒くしてくれると言われている」と言ったら
「増えたりもする?今日から食べるよ」
とご自分のトンスラ気味の頭を指差したのが自虐じゃなく笑える感じでした。

お顔立ちがイケメンで、
世界史で出てくるフランシスコ・ザビエルと
筋肉質になってからのオーランド・ブルーム
を足して二で割ったみたいな。
くっきり二重の下り眉。
可愛い系イケメン?

正直、正視するのが照れるレベルでした。

そう思ったのは自分だけではないらしく、
ウクライナから来たという可憐な美少女がはにかんだりめっちゃわかりやすい上目遣いをしたりして、
クラスの雰囲気が
「えっと…」
となったりもしました。
(ウクライナといえば人は「美人」を連想した平和な時代の出来事です)

最近お名前検索したところ、
顎ひげがオンされイケおじになっておられました…
南米で何社か起業した後、スペインのマドリードでチームビルディングコンサルタントの事業をしているようです。

インタビュー動画で
「お父様はピレネー山脈の〇〇を初登頂された方だとか?」
「父は自分達兄弟に『なんでもやりなさい。ただし真剣に』と教えました」
というやりとりを見かけました。

さて話は跳びますが、
男性が口説く対象を決める時って、
たくさんターゲットがいるなか、それぞれの様子を見つつ、反応が良かったところに絞っていくかんじなんですかね…?

それだと、深追いしなかった相手は「気のせい?」で済むし、
絞り込まれたターゲットは「ずーっとアプローチされてる?」
と思える。
そういうアプローチに対して、途中でやめればいいのに律儀に反応してたな…と思い出したのが次のエピソードです。

・椅子とテーブルが片付けられて広い空間ができた時に「○○(わたしの名)踊ろう!なんでも好きなのでいいよ!」
「えええ?…ワルツとか??」
…スライドが違いすぎて3ステップで敗退、爆笑しながら終了

・自分が窓辺にいたのを相手が下から見つけて

「○○!ロミオとジュリエットごっこだ!」

「いいよ?
『ああ、ロミオ、どうして貴方はロミオなの?』」

「え、ええと?…ジュリエット愛してる!」

「こらっ、窓辺で遊ぶんじゃない!」(おばあちゃん先生に見つかって退散)


…いやこの2つはもう少し話をしてスモールステップを重ねてからだったかな…

わたしは学生で、夏休みに家族の赴任地に遊びにいっていたので、帯同で行った4つ下の弟も同じ語学学校に通っていて、弟の方が先に彼に懐いたのでした。

3人で外にいた際、「190越えはデカイね」の話から弟が彼によじ登るので
「ごめん、弟はロッククライミングが趣味で…」
と謝りました。

日本人のユージ・ヒラヤマが大活躍していた時代でした。

その時は、彼のお父さんが登山関係者だとは知らなかったしそんな話もしなかったので、前掲のインタビュー動画をみつけて初めて「ありゃ、ポイント稼いじゃっていたのか」と気づいた次第です。

同じ時に年齢の話になって
「10歳の歳の差はありだと思わない?」
とさらっと言われたのに対してはいいとも悪いとも言えず流したような気がします。

わたしが一つ前のクラスから一緒だった気のいいオランダ人のヨールン(23、4歳?就活中の大学生)と、もう一人、チンクチェントに乗ってアルプスを越えてきたというイタリア人の3人が180センチ越えだったので、3人がじゃれていると壁のようでした。

そう、高身長の人はそこにいるだけで周囲に緊張感が走るんです。
なので高身長同士が戯れてくれると、一気に空気が明るくなる。

緊張感は、ゆるい夏休みの語学教室でも時々走るもので、例えば、南米のゴージャスマダムが「日本人は原爆を落とされてから高身長化したって本当?」という質問をした時などは一瞬沈黙がありました。

そんなわけあるかいな、と無知を責めるわけにいかないし、ああ東洋人ちんくしゃのイメージあるのな、というのも透けて見えるしいろいろ突っ込みにくい。

幸いわたしより滞在歴の長い弟が「高身長化は戦後の栄養改善のおかげ。因みに祖父母が広島で被爆したが後遺症はないケースだった」と淡々と説明をしてくれてことなきを得ました。

実はその後わたしも緊張感を走らせました。

旧植民地と旧宗主国について、語彙力もままならないのに「関係改善ってどうやっているの?」とぶちあげてしまったのです。

彼が「貿易や、人的交流で関係は深いよ。お互い努力するんだ。な、ヨールン?」とオランダ人に振ると、
誰かが「オランダは植民地なんてあったのか?」と聞くので、ヨールンが「インドネシアのあたりだね」と。
で、「そうかそんなところにあったのか」というように話が拡散してその話題はそこまでだったのですが、ヨールンが笑いながらぼそっと「その頃からオランダ人の高身長化が始まったんだよ」と言ってくれたのでした。

ヨールンいいヤツだった…クラス終了のパーティーで可愛いスウェーデン人の彼女作ってた…「どういう系に就職するの?」と聞いたら「…就職…したいねぇ」って答えてた、欧州も不況だったあの頃…。

元気にしているかな。苗字忘れたから検索できないや(テヘペロ)。

ええと、話は脱線しましたが、お気づきかと思いますが、彼の後年の経歴を見るに、わたしはここでもポイントを稼いでしまっていたわけです。
歴史を忘れずに、そして前向きに、という姿勢での経済活動が彼のテーマだったようで、そこにわりとドストライクな質問をしてしまったのですね。偶然て、コワイですね。

さて、この講座は期間が二週間という短いものでした。終わりも近い放課後に彼が「草サッカーしよう」と話をまとめたので、東京での代々木公園のような場所に集合してゴール一つで攻守を交代する芝生サッカーをしました。

わたしはキーパーで(ネットがないのでボレーなし、左右にしか振らないルール)、なぜかファインセーブを連発して、なんとなく盛り上がったような。

夕方からのイベントに再集合ということでいったん解散し、3、4人で彼が借りている公園近くのコンドミニアム(友人がバカンスでいない間だけマンションの一室を借りる方式)に寄りました。

今思うと、共通語は全員が不得手だし(お試し講座だから)、ややもするとスペイン語が優勢になっておいていかれるし、女性一人だったのによくついて行ったな…あれ、弟は一緒だったか…大分記憶が曖昧ですみません。

誰もなにも気を使わず(水筒持参がデフォルト)、気持ちのいい虚脱感で外を見たり適当に座ったりして涼むなか、彼は一人とっととシャワーに入って、タオル腰巻きで出てきて「もうちょっとだけ待っててね」とかって言って引っ込んだ。スルーしたが、いい匂いと胸毛はチェックできる距離感。

これ、今思うと…男性を知っている女性ならおちていたのでしょうかね…ワタクシあいにく男女のコミュニケーションが淡白な平たい顔族出身のため、判断のための目盛りが振り切れてしまい現実感に乏しく、しかもその頃男性を知らない子ちゃんだったので…いえ、胸毛はそれほどショックではありませんでしたけどね…記憶が曖昧になっているあたり、充分なんらかのマジックにかかっていた可能性はありますね。

さて、夕方の部の待ち合わせは中央広場。
早めに出発して、屋台のシシケバブのピタを買って、肉のソースはなんだ、スペイン語ではアホ(ニンニクのこと)だな、などと言いながら向かいました。

実はイベントについては記憶が曖昧すぎて書きにくいので軽く調べてみたところ、なんと全ての謎が判明しました!すごいなネット社会!ん十年越しの謎が解けましたよ!
要は、日没後に広場をライトアップをしていると聞いて行ってみたものの、想像よりはるかに日没が遅かったため流れ解散になったのでした。うん、辻褄あうわ。

…そんな経緯で場所取り的にかたまって4、5人で待っていました。喋ったり、各々自由に散歩に行ったりしつつ。夕暮れ時の、ロマンチックな雰囲気でした。

広場の中央を向いて立っていた時、後ろにいた彼がわたしの両肩に手を置きました。
ああ、これは、これ以上は流されてはいけないやつだ。
さすがにもう気のせいにはできない。
とても辛かったけれど、迷いはなかったです。

ぽん、ぽん、と、片手で片方の手だけに合図しました。
一瞬のち、両手とも引っ込み…たまらず振り返ると、彼は正面を向いたままこちらを見ませんでした。
それまではチラッとでも見るといつもニコニコと大きなリアクションがあったのは楽しかったな、と寂しく思ったのを覚えています。いや、なんなら今からでも撤回する方法ないかな?!くらい思ったかも。

さて次の段落のせいで、話は微妙に漫画風味です。

ふと、後ろから日本語が聞こえるのに気づきました。
後方の少し奥まった舞台?の上に座っている日本人男女がいて、女性が「写真撮ってもらいたいね」と話していたのです。
「撮りましょうか?」
わたしが振り返ってお節介をしたのは、ツラい空気から逃れたかったからなのは明らかでした。二人は、急に聞かれたので驚いていたけれど、素直に頼んでくれました。女性のほうが相手といい雰囲気になりたいのかな、と、「もうちょっと寄ってください」なんて余計なお世話も焼いたら積極的に寄って行きました。

それを見て「東洋人がチャラついて」的にぶつぶつ言ってる地元?のおじさんがいるな、というのは目の端でチェックしてたんですよ、まぁなくはない出来事だな、と。でもスルーして撮り終えてカメラを返して戻ったら、彼がその人達に文句を言いに行くところだったのです…追いかけましたよ。やばい、止めるのは自分の仕事だ、と思いました。

幸い彼がひとこと言っても相手は逆ギレはせずことなきを得ました…振り返った彼は、なんというかアドレナリンが残っているような初めて見る表情で、こちらまでのまれそうになるのを踏み止まり、相当ぎこちなかったと思うのですが、笑顔をつくって声をかけました。まもなく彼も笑顔を見せてくれ、深く安堵しました。

で、その日は解散したわけです。

明けて修了パーティー。
ヨールンは彼女をゲットできたけれど、わたしはできず、
彼が早速バインバインなスペインのお姉様方を侍らせているのを目の当たりにする羽目になった修了パーティー。
早速かよ!というかやっぱり今まで抑えていたのな!
いやいやいや無理だってこんなん、一瞬のひと夏でもこんなんとすごせるわけないでしょ心臓に悪い、振って大正解でした!
…と、思えれば楽なんですけどね。いや若干思ったことも白状しますけどね。
で、まぁ、わたしも名残が惜しい友達と喋って回っていたわけですよ。
それで、彼がたまたま(単体で)中庭にいたら寄って行って話くらいはするわけですよ。大人だから。
既に懐かしい「なに?(にこにこ)」の表情で覗き込んでくるのをドギマギしながら目を逸らさずに見返して、お互い拙い言語で会話するわけですよ。あー、やっぱりイケメン圧半端ないなちくしょう、落ち着け心臓、でした。

何かの言い間違いか聞き間違いで、わたしが「緑色の…」と言った時、彼が「グリーン、なに?…僕はグリーンピースだよ?」と言いました。
以前授業の自己紹介でわたしが、自分が環境問題に関心があると言ったことに寄せてきているのかな?くらいに思い、
「はいはい、わたしのちっちゃいグリーンピース好きよ」
(英語だったらI love my little green peace)

と、嫌いだからお断りしたのではないことを暗に伝えました。
彼は、ちょっと黙り、片手をわたしの肩に載せると中庭の芝生と花壇を仕切るレンガの上を綱渡りのように歩き始めました。肩に置かれた手が、心地よい重さでした。

中庭に置かれたホワイトボードのところまで来ると、
彼は仏語とスペイン語で平和と書き、日本語は?と聞くので「平和 Heiwa」と書きました。バスク語は?の問いには焦って他の同郷人に訊ねていたのが可愛かったです。
周りの人も面白がって書き始めました。イスラエルのヘブライ語とアラビア語が並んだとき、「同じだね!」と声をかけあう人たちも見ました。…白板は平和でいっぱいになりました。写真を撮る人もいました。

いつのまにかまた肩に手を置かれていたような気がします。「これ、いいね」などと言っていたような。
お互いを見つめなくとも、同じ方向を見つめている感じが穏やかで心満たされました。

もうふた段落だけ続きます。

しばらく後、別の学校に通っていた時にその図書館でたまたまGreenpeaceの記録DVDを見つけ、借りて見たことがありました。
本当にたまたま手に取ったそれは、1970年代か80年代にEURATOMが低レベル放射性廃棄物を海洋投棄していたことに対する抗議の記録でした…ドラム缶が海に投下される真下に待機して、時にぶつかる危険をおかしてまで抗議アピールをする「虹の戦士号」が撮影されていました。
DVDの最後のシーンでは、虹の戦士号が帰港する先、バスク地方の中心ビスケー湾の港の沿岸にびっしりと人が並び、「ありがとう」の横断幕が掲げられていました。

あの中に彼はいたのかもしれない、と思いました。発言力経済力の弱い地域に原発ごみが押し付けられてしまう現実がある中で、漁場の海を守ろうと抗議してくれた人がいたことを受けての「僕はGreenpeace」だったとしたら、
わたしに表明してくれたのは、祖国で原子力を使われた痛みへの共感?労り?があったからなのかもしれない…その時のわたしの感慨を言葉にするとこんな感じです。

さて、最後のまとめです。
日本には、遡って16世紀の大航海時代にスペイン対イギリスのつばぜり合いをかわした歴史などがあります。
対するスペインのバスク地方も、大航海時代に海の民として船乗りや宣教師(「バスコ」・ダ・ガマ、ロヨラやザビエルはバスク人)を輩出したことを含め、今ちょっとWikipediaを見ても欧州の周縁であり先端でもある大変興味深い土地柄で、
お互い「あ、世界史で出てきた国の人だ…」という認識だったのかな、とも思いました。

ちょっと遠すぎて、情報が少なすぎて、お互いが余計魅力的に見えることってありますよね…


長い文章を読んでくださりありがとうございました😊

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