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【ヒストリア⑤&⑥&⑦&⑧】クラッシュがニューヨークの殿堂・MSG出場の快挙/1980年、ジャガー横田は3本のベルトを巻いて大躍進/“25歳定年制”が崩れた日…デビル雅美が退団→海外遠征を発表/「女子プロレス版おニャン子クラブを作る」ジャパン女子が発足

 ここでは、クラッシュギャルズのアメリカ遠征を振り返ってみたい。
 昭和60年9月26日、クラッシュブームの最盛期、大宮スケートセンター大会をタイタンスポーツ社・瓶図マクマホン社長の密使として、WWF(当時)のジェームス・E・トロイ氏が視察。
トロイ氏は「私は全日本女子プロレスにWWFに上がるにふさわしい選手をスカウトしに来たんです。私の見た限りではクラッシュギャルズがいい」とコメントした。
 これを受けて全女関係者が渡米。WWF関係者との会談を行った結果、
クラッシュと極悪同盟(ダンプ松本&ブル中野)のWWFサーキットが決定したのである。4選手はWWFの招きを受けて、昭和60年10月、MSGの定期戦を観戦。超満員のファンの前にてリング上からクラッシュがあいさつしたものの、ものすごいブーイングを浴びせられることとなった。「今度ここに来るときは、このブーイングを声援に変えてやる」と長与はこの時誓ったという。
 昭和61年3月6日、成田発ノースウエスト18便に乗り、13人もの女子プロクルーは13日間における米国サーキットへ出発。ニューヨークを経由して、マサチューセッツ州ボストンに向かった一行は空港からホテルへ荷物を
預けた後、そのまま試合場であるボストンガーデンへと向かった。
 クラッシュは第3試合でドナ・クリスチャネロ&ジュディ・マーチン組と対決。「ローリングそばっと」の曲に乗ってリングに上がると観客からは”ジャパニーズピーターパン”と称され、歓迎コールが起こった。
 試合は飛鳥がジャイアントスイング15回転を決めてマーチンを抑え、第一戦を飾った。
 その後、3月11日パーキプシー大会にてジン・カークランド&レイ・ラニ・カイ組を破ったクラッシュは同月16日、念願のMSGへ出場した。


クラッシュのWWF遠征は全3試合。最終戦ではついにMSGのリングへ上がった。

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