見出し画像

おすすめしないクラシック

私はサラリーマン音楽家なので、自分で仕事を選べない。割り振られた仕事はやらなければならず、プログラムなど選べないし、ましてや頓珍漢としか思えない現代曲ももっともらしい顔して弾く時がある。
すいませんね。魂売ってるんで。

うちの指揮者は、自分が見つけた推しをプログラムに捩じ込んでくる時がちょいちょいあるのだが、時に理解不能だ。昨日はよくわからない電子音に、指揮者の合図だけを頼りに謎の音列を繰り返していたのだが、舞台の上であらためて、これ駄作だろ、と思った。
結局ね、何をやってもいいんだけど、音に乗ってるメッセージは聴衆に対して意味を持たないといけない。昨日やった曲は聴衆どころか舞台の上の人間すら置いてけぼりみたいな曲で、共感なんぞなかった。
私は弾く側の人間であるからして、その曲の美味しいところを探すのが仕事だ。無名であろうと、弾いてみて鳴らしてみたら、美味しい曲というのは多分、聴衆が思うよりは多い。しかし、だめなものはダメだ。昨日のはダメだ。あれはライブで聴く、という臨場感にまつわる良さが全くない。

個人的に怖いなと思うのは、意味わかんねえな、と思いながら弾いている曲は小さな予想外が舞台の上で起きた時、リカバーできない時がある。昨日も自分の弾く音に確証が持てないことがあった。
予想外は常に起きるものだ。体に収まっている音楽だと、すぐ立ち直って音が出てくるのに、頭で音を出している時は狼狽えてしまう。おお、嫌だ嫌だ。

しかし、昨日のお客さんは実に正直でせいせいした。曲が終わるなり客席のどこかから、もう結構、という男性のつぶやきをファーストバイオリンほぼ全員が聞いていた。終わってから一同の総意である、と頷いていた。

うちの監督にでっかい声で言ってやってください。わざわざお越しいただいたのにすいませんねぇ。
でも、後半はなかなか良かったでしょ?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?