60,000円の、六畳の、畳の。 #はじめて借りたあの部屋

夏から秋に季節がかわる頃。大学と駅のちょうど中間に、予算60,000円におさまる部屋を見つけた。

古く独特な学生寮での集団生活から、自分だけの空間で生活がはじまる、記念すべき日だった。

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その1年前、はじめて訪れた不動産屋は、ビルの一階の狭いスペースにある店舗で、若くてエネルギッシュな営業の男性が窓口に並んでいた。よくCMでも見かける大手で、とりあえずここで聞いてみたら間違い無いだろう、と思ったのが間違いであった。

当時(たしか)19歳だった私が内見に連れて行かれたのは、希望していた沿線沿いではなく、しかも家賃より少し高い部屋ばかりだった。
「ここからも実は、大学まで歩いて20分で行けますよ。」
「家賃は少し高いけど、オートロックついてますよ。」
事前に間取りの図面を見せられた記憶はあまりない。
ただただ、車で連れて行かれた。
その男性一推しの部屋は、窓を開けるとすぐ線路で、ドアを開けたお向かいさんの部屋のドアには、手書きで大きく「精神と時の部屋」と書かれていた。
「ここなら予算内ですし。いいなぁ、いい部屋だなぁ。」男性はにこにこしていた。私はきっと、バカな田舎出の女子大生だと思われているに違いない。ただただ、不愉快だった。

内見した部屋はどれもピンとこず、帰りの車内で「ちょっと、考えさせてください。」と言った。
男性は、車を脇道に停めた。
「何でですか?何がダメなんですか?」
なぜか私は怒られていた。

当時の私からしたら、年齢はさほど変わらないのかもしれないけれど、社会人の男性というのはとてもオトナに見えたし、車の中で男性と二人きりで怒られるのは、なかなかの恐怖だった。

これ以上話すと涙が出そうだったので、グッと堪えて黙り込むと、男性は大きなため息をついて、店舗に車を走らせた。よかった。助かった。

その夜、私は田舎の父親に電話をした。「どうしてうちは家賃にこれくらい出せないのか。この辺は相場がこのくらいだと言われた。友人たちは、もっといい部屋に住んでいるのに。」見当違いな文句を浴びせ、目からは涙が出ていた。怖い思いをしたことは、情けなくて言い出せなかった。

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この一件依頼、不動産屋との接触がトラウマになっていたけれど、最寄駅のそばに女性スタッフのみの不動産屋を見つけたことから、家探しを再開することにした。

予算と土地的条件に合った間取り図が、当時帰省していた先の実家に送られてきたのは、部屋探しを再開して間もない頃だった。

間取り図から分かるのは、物件の位置と、シャワーのみでなくユニットバスがついてること。洗濯機置き場が室内で、二口ガスコンロ設置可能なこと。部屋が和室なこと。そして、大家さんの家の2階ということだった。内見はせず、即、その物件を押さえてもらい、引っ越しをした。

荷物は学生寮から、一人で何往復もしながら自転車で運んだ。布団だけタクシーで運ぼうとしたら、運転手さんに怒られた(なにせ、本当にお金がなかったのだ)。

親から出してもらえるのは、毎月の家賃60,000円。
学費は奨学金で賄い、生活費はほぼバイト代。

二口ガスコンロ、洗濯機、小さな冷蔵庫は、家電量販店を巡って一番安いものを買った。ひと月のバイト代を上回る合計の金額に、心臓がドキドキした。

当時見つけた、「東京一人暮らしOLの節約日記」なるブログの記事を読み、同じ東京で、こじんまりとした1Kに一足先に自分の城を築くブログの筆者に思いを馳せた。インスタもまだ無かった頃、私なりに今で言う「丁寧な暮らし」に憧れていたのだと思う。同じすのこベッドと、収納スペースを作れる衝立を買った。絶対に失敗したくないから、慎重にサイズを測り、紹介されていた商品の口コミを読み漁った。

それと、西友で本棚にするための三段ボックスを2つ買い、えっちらおっちら、家まで持って帰った。

こうして私の、はじめての"一人暮らし"が始まった。

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一階を住居とする大家さんは、とてもあたたかい、70代の夫婦だった。旦那さんは勤めていた会社を退職し、奥さんはおそらく専業主婦。かわいいあかりちゃんというトイプードルと住んでいる。

二階へ上がる外階段の上には、大きな青いゴミ箱が設置されていた。ゴミの日は、そこに入れておけば、大家さんがゴミを出してくれる。

あるとき、部屋の湯沸かし器が故障したようであることを伝えると、旦那さんが、あかりちゃんと一緒にやってきた。私が犬好きということを知っているので、そうしたのだと思う。

部屋であかりちゃんと遊んでいるうちに、大家さんはガス会社を手配してくれて、「いちばんいいやつを、つけてもらうよ!もう大丈夫だ。」と言って、ピカピカな湯沸かし器を取り付けてくれた。

夫妻は、ちょこちょこ、旅行に行っているようだった。海藻とか、乾物とか、そういったお土産が手紙と一緒にドアにぶら下げてあったりした。私も帰省のたびに、お土産を買って帰った。

東日本大震災の時も、私はその部屋に住んでいた。
ダンボールに紙を貼っただけの、傾いたテレビ台に乗せられた小さなテレビからは悲惨な映像が流れ、近所のコンビニは空っぽになった。
余震が怖くて外に出ると、2階の外廊下に、「水や食料でお困りの方は声をかけてください」と、手書きの張り紙が貼られていた。たいそう心強かった。

私が病気で手術をすることになったときは御見舞いを包んでくださり、就職が決まったときは御祝いと、奥様が選んでくれたピンクのかわいいストールを頂いた。

東京に頼る親戚がいない私にとって、古い六畳の和室の空間は、ほっとして、本当に居心地がよかった。
オートロックなんてないし、夜は下の階から大家さんのいびきが聞こえてきたりしたけれど、それすら「味方が近くにいる」という気持ちにさせてくれて、心強かった。

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運良く、第一希望の会社に就職できた私は、そこそこのお給料をもらい、奨学金を返済しながらも、少し、いい暮らしが出来る様になっていた。

もう少し良い部屋に住もうと決めたのは、社会人2年目の頃だった。大家さんは、私が結婚して退去するものと思ったらしい。「違うんですよ〜、相手も募集中です。」なんて言いながら、挨拶を済ませた。

最後のお掃除は、念入りにした。

恋愛や、友人関係で悩んだ夜も、暗い気持ちも、ジトジトした思い出も、全部、全部、部屋の畳が吸い取ってくれた気がした。

目に沿って、丁寧に、丁寧に畳を拭いた。
最後に部屋の中を確認した大家さんは、「こんなにきれいに使ってくれて。ありがとう。」と言った。

ここに越して来た時とは違う。今回はちゃんとした引越し屋さんに頼んで、手伝いにきてくれていた母と私は、思い出の家に別れを告げた。

***

その後も、大家さんとは年賀状のやりとりを続けていた。

転居後も大家さんの家からさほど離れていなかったので、そろそろ久しぶりに挨拶に行きたいなと思っていた。

本当にちょうど、そんな時だった。

ポストに、薄墨で書かれた葉書。
大家さんの奥さんが亡くなったという、喪中の挨拶だった。

転居して3年の秋、付き合っている彼との結婚が決まった頃で、たしか葉書を読んだその時も、家に彼がいた。

私は、泣いた。あんなにお元気だったのに。会う時は必ず、しっかりお化粧をしていて。センスがよくて。
うちの実家にも、お花を送ってくれたりして。
まだ、亡くなるには早すぎる。
旦那さんの心情を思うと、涙がとまらなかった。

「前に住んでいた家の大家さんが、亡くなったんだって。」そういうと彼は、少し困った顔で、「あら、残念だね…。」と言った。

***

その年以降、年賀状を送るのをやめてしまった。

結婚後、かわいいかわいい子供も産まれ、都心に引越しをした。

朝晩の食事はバイト先の賄いの惣菜パンで、不健康に太っていたあの時からは、想像もつかないほど。なんというか、余裕のある生活を送っている。

栄養を考えつつ好きな野菜を買い、ちょっといいお肉を買って、食べたいものを作り。
作るのが面倒な時は、躊躇なく、外食やデリバリーにしようかと言ってくれる夫がいる。

間違いなく、あの部屋に住んでいた時から比べると、恵まれている。そう、恵まれている。
でも、あの時も今も、我が家は居心地が良く、総じて幸せである。

あの部屋も、いまの家も、共通して陽当たりが良い。
訪れる友人は、あの時も、いまも、「ぷけ太郎の部屋って居心地がいいよねぇ。」と言ってくれる。

あの時の私も、いまの私も、料理が好き。
ちょこっとした季節のものを飾るのが好きだし、ネットで素敵な暮らしをしている人たちの様子を見るのが好き。
窓際にベッドを置くのも、そこで、上半身少し高くして、ぐでぐでと読書をするのも。

私は、あの部屋で、育まれたのだ。自分の好きなものと嫌いなものの見極めの仕方や、自分らしさを、自由に。

大家さんのところによく遊びに来ていたお孫さんたちは、もう、中学生くらいになっただろうか。

いつかまた、私を育んでくれたあのアパートがある街へ、遊びに行ってみよう。子どもたちと一緒に。

#はじめて借りたあの部屋 #東京 #一人暮らし


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