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戦争と香港~旧日本軍の足跡をたどる~摩星嶺要塞跡編

香港島最西部の高地、摩星嶺(マウントデイビス)。ビクトリア港の西の玄関口に位置し、香港がまだ「維多利亜城(ビクトリアシティー」と呼ばれていた英国統治時代の初期に、港湾防衛のために英国が設けた要塞跡が残る。1941年12月の太平洋戦争(大東亜戦争)勃発を機に、日本軍による猛攻撃の標的にもなった。

要塞跡へは、島西岸を走る域多利道(ビクトリアロード)沿いからアスファルト道を1時間ほどかけてゆっくり登っていくのが正攻法だ。付近のバス停が目印でもあるが、登り口は現在、米シカゴ大学香港キャンパスの真向いにある()。

正攻法としたのは、アスファルト道以外に山頂に向かって伸びる階段を多数確認できるためだ。木々に覆われるなどして朽ちてしまい、通行できなくなった箇所もあるが、数十年かけて整備され、山全体が要塞だったことの証左だろう。

摩星嶺では1900年に英軍が防衛施設の建設を提案し、1906年に決定、1909年に要塞建設を開始。1911年に9.2インチの沿岸砲4門、翌年に同じ口径の1門の計5門が設置された。ただ、島南部の防衛力強化という理由から、その後、2門が赤柱(スタンレー)砲台に移設されている。

摩星嶺の沿岸砲台跡

1941年12月9日、日本軍が香港に侵攻した翌日に新界南西部の大欖角方面に摩星嶺砲台から攻撃を仕掛けるなど、日本軍との戦いでは一定の役割を果たした。だが、同時に日本軍による苛烈な空襲と砲撃を受けて、司令部や防空陣地、一部大砲も破壊され、多数の死傷者が出た。同25日、英軍は投降前に残りの施設を破壊したという。

山頂一帯では兵舎や高射砲台などの遺構を今も確認できる。防御壁の弾痕なども生々しい。木々で前景がほとんど遮られているが、かつては大嶼島(ランタオ島)や長洲島、南丫島(ラマ島)、坪洲島など周辺の島々が一望できたのだろう。戦後も軍事施設として利用されたが、1959年に役目を終えた。

高射砲台跡
弾痕をはっきり確認できる

戦時遺構が集まる場所だが、人が全く訪れないわけではない。ユースホステルや公園があり、旅客や近隣の住民ともすれ違う。筆者も遭遇したことがあるが、エアソフトガンを使って撃ち合うサバイバルゲームのメッカでもある。無数の白色のBB弾が土の地面一帯にめり込んでいるのを確認できる。

香港政府当局は2009年12月、摩星嶺砲台跡を3段階評価の真ん中に当たる2級歴史建築に指定した。「特別な価値を伴い、選択的に保存する努力をすべき」という位置付けだ。実際、戦争遺構だけでなく、英国統治時代の空気を残す場所でもある。香港では英領だった名残で、地名などの表記が中国語と英語で必ずしも一致しないが、摩星嶺もまさにこれだ。

マウントデイビスという英語名は英国統治時代初期の1844〜1848年に香港に赴任した第2代総督、サー・ジョン・フランシス・デイビスにちなんだという。摩星嶺という中国語名は隣接する西高山(ハイウエスト)の別称、摩天嶺と対と捉えられたなど諸説ある。

なお、摩星嶺では香港政府が2級歴史建築に指定する以前から、地元市民らが清掃や保存活動を行っている。

(見出しの写真は、摩星嶺要塞跡に残る遺構の一部)

※筆者よりもう一言

シカゴ大香港キャンパスの前身は、1950年代に皇家香港警察(ロイヤル香港ポリス)政治部管轄の域多利道扣押中心(域多利拘留所、俗称「白屋」)。スパイ活動や政権転覆の容疑者、共産主義者らが収容され、拷問を受けるなどしたという。銀禧砲台(ジュビリーバッテリー)の敷地の一部を利用して設けられた。砲台跡はキャンパス内に今も残る。

現在、海沿いでは洗練された高級住宅が目を引くが、1950年代初期には国共内戦に敗れ、香港に流れてきた国民党の兵士らが当局により摩星嶺南部に集団居住させられていたこともあった。新界地区の調景嶺に「小台湾」と呼ばれる一大居住エリアが生まれる前のことである。1953年に九龍地区・石硤尾の木造バラック群で起きた大火災を受け、避難民向けに山腹に整備された「公民村」の跡地も残る。

限定されたエリアながら、戦跡だけでなく激動かつ混沌とした戦後の香港の歴史も垣間見ることができるのが摩星嶺だ。

銀禧砲台跡=シカゴ大香港キャンパス内から撮影
英軍が設けた界石(境界標)

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