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昔覚えた、ある言葉で、モヤモヤが晴れた!?

こんにちは。応援家(カウンセラー/インタビュアー)で「 #ジョシの人生50から」LIFE実践中のLairaです。

年末から、とあることで、モヤモヤが晴れずにおりました。
「公正」でありたいし、そうあってほしい。
そんな思いを、子どもの頃からずっと・・我ながらうっとうしいほど強く抱いている気がします。

いくつか原体験があるのですが、そのうちのひとつは幼稚園の年長さんの時。
「先生が職員室に行っている間、絶対にお教室の外に出ないこと!」
担任の先生から、厳しめに言われていたにも関わらず、クラスのほとんど全員が廊下に出て悪ふざけ。
激怒した先生が全員を廊下に立たせ、げんこつでアタマをゴツン!(THE昭和な風景ですよね・・笑)私もみんなもワアワア泣いて謝りました。
落ち着きを取り戻した(←後から振り返るとね)先生が、
「じゃあ、手を洗って、お弁当にしましょう」
と優しく声かけしてくれたのがうれしく、私はにっこり笑ったんですね。
すると先生が、突然、声色を変えて、
「○○ちゃんだけ(←私の名前)反省してないから、廊下に立ってなさい!」
と言ったのです!

ええ〜っ??? なんで? なんで? なんで?

先生が許してくれたことによる安心感から出た笑顔ですよ???
なーんて、幼稚園児が言語化できるわけもなく、
火が着いたように泣き続けた私。
その姿に驚いた先生が、あわてて、
「じゃあ、もういいわよ」
と声をかけてくれたのですが、おさまらない。

この時、私は、
先生に誤解された悲しさと悔しさ、そして怒りでパニック状態に陥っていたのだと思われます。

(この手のエピソードは山ほどある〜)

勝手に誤解しないでほしい。
公正であってほしい。

なのに、年末から、ポツリポツリと「あれ???」ということが重なり、今日もまた「ええ?」ということが・・。

うーん。

声を大にして言うべきか・・。
黙ってこのまま見て見ぬ振りをするのか・・。

なーんていうココロの声がワサワサして止まらない。
他に考えたいこと、やりたいことが山ほどあるのに、なんだかもったいないな・・といったモヤモヤがMAXに達した時、突然、思い出したのです、この言葉を!
(あ、全部じゃないですよ。キーワードだけですが)

「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。聖なるものを犬に与えてはならない。また、豚の前に真珠を投げてはならない。豚はそれを足で踏みつけ、犬は向き直って、あなたがたを引き裂くであろう。」(マタイによる福音書7:1~6)

日本聖書教会さまHPより引用させていただきました

高校時代、学校で覚えた聖書の一節です。
私はクリスチャンではないのですが、聖書の言葉は大好きで、気に入った言葉はノートやカードに書き写していました。
この言葉もそのうちのひとつなのですが、腑に落ちたのは今日が初めてかも!!!
人がズルしようがしまいが、公正か不正か・・いやはや、ヒトサマのことより、まずは自分でしょう、と。
いつの間にか、他人をジャッジする成り上がっていた自分が恥ずかしくなりました。。。

もしかしたら・・別の角度から見たら・・今の私には、思いも寄らない話も出てくるかもしれないしね。

まずは自分の目に突き刺さっている(おそろしー)梁を取り除くことに集中、集中!!!
最近、いたるところで「自分軸」という言葉を目にしますが、まさにそれ、ですね!

ではでは。