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もがく産廃

私の中の葛藤を吐露いたします。

生来、私は自己嫌悪の類からは縁遠かった。なぜなら聡明だったからだ。大して勉強せずともテストでは良い点数が取れた。公立中学校ゆえなのだが、常にノー勉で一桁順位であった。高校受験もほぼ勉強せず。それでも第一志望に受かった。高校に入ってからも、他人より明らかに少ない労力で学年1位を取った。そのまま一橋に受かった。今考えてみれば、自分が嫌いになることが少なかったのは、学生時代において大きな割合を占めるステータスで秀でていたからなのだろう。

だが、代償として大きなデバフを背負っていた。おそらく報酬系がイカれているのだろう、腰が重すぎる。何事にもやる気が出ない。いや、やる気があるフリをするのだけは19年間で獲得してきた。実際には、体が動かないのだ。そのうえ手際も悪いし運動神経も壊滅的ときた。このステータスから聡明さをしょっ引いたら間違いなく産業廃棄物である。

この一年、私は13年ぶりに、頭脳が自己肯定感の源泉たりえない環境で過ごした。その結果、自己嫌悪に陥った。

腰が重すぎるのだ。バイトをする気力もなく、”垢抜け”のために継続的な努力をすることもない。そもそも、私は継続的な努力ができる人間ではない。事実、受験期の一日の平均勉強時間は3時間であった。こんな人間に努力などできるわけがない。バイトをやっても、あまりの手際の悪さにパンクしそうになる。ミスを指摘され凹む。

私は私の悪いところを理解している。これが努力でどうこうなる部分だったらどれだけよかっただろうか。努力そのものである。”服を買いに行くための服がない”。まさにそういう状況である。努力が習慣化できるように、いろいろインプットした。しかし習慣化するためのタスクを習慣化できない。

このデバフを背負った自分を全面的に肯定してあげれば良いのかもしれない。だが、そうもうまくはいかない。垢抜けない私を、私の無様なパフォーマンスを嘲笑する声を周囲から受けた。もちろん冗談、”愛のあるイジリ”なのはわかっている。だが、その言葉を私は内面化してしまう。周囲の嘲笑を、ノロマで努力を怠る私自身への非難に変えてしまうのだ。剰え、バイタリティーにあふれた友人たちの姿を見ると、それと自分を対置して、なぜここまで自分は鈍らなのか思索にふける。そしてまた自己嫌悪に陥る。こんな毎日だ。とりあえず、そこらへんに自己嫌悪の地雷が埋まっている感じである。

この一年で何回希死念慮が頭をよぎったか分からない。これが続くようなら、大学卒業までに、いや二十歳に達する前に。。。そう考えることもある。

しかし、常に希死念慮がログインしているわけでもない。冷静になって考えることもある。
友人からこんなアドバイスを受けたことがある。
「自分にできることをするしかないでしょ?」
たしか、嘲笑によって自己肯定感をゴリゴリ削られていた時に相談した相手の返答だ。できることをやるしかない。シンプルだが、ややもすれば忘れてしまう。この言葉が指針を少し明確にしてくれた。そして、ちょっとだけ自己肯定感を上げる源泉になる気がした。

「自分にできることをする」ためには、まずは
①すでに獲得しているもの
②獲得していないが、ゲットのための必要経験値が少ないもの
③獲得していないし、莫大な経験値を要するもの
に区別していく必要がある。この分類の作業の中で、②と③の違いが明瞭にできるはずである。そうすれば、「何もできないわけではない」という意識が、自己に根付いてくれるかもしれない。そんな期待を、まだ抱いていたりする自分もいる。

分類出来たら、あとはやるべきことをするだけだ。すべきことが明確なら、私の身体も少しは動いてくれるかもしれない。

生まれたての僕らの前にはただ
果てしない未来があって
それを信じてれば 何も恐れずにいられた
そして今僕の目の前に横たわる
先の知れた未来を
信じたくなくて すこしだけあがいてみる

未来 / Mr.Children

正直、今のところ見えている未来は碌でもない。それを信じたくないのなら、悪あがきするしかない。

私は全能ではないが、無能でもない。

そんな意識を再び取り戻せるように。
そんな事を考える19歳の誕生日でした。


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