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見えないけど存在する確かな力

会社に勤めていた頃、二駅先のオフィスまで自転車通勤をしていました。
家とオフィスのちょうど中間地点の十字路に、二体のお地蔵さまがいらして、ある日、なんとなく拝んでみました。

「新しい環境で、新しい生活が送れますように」

早朝に手を合わせて拝む、祈るという行為は、なかなか清々しくて気持ちがよく、その時をきっかけに、毎朝お地蔵さまへご挨拶するのが日課となっていきました。
そのうちに、朝だけでなく、帰ってきた時も拝むようになり、他の道を通った時など、そわそわしてしまい、わざわざルートに戻るようになったり…。

そんな習慣はなぜか1年以上も続き、願いを掛けるというより、毎日の当たり前の作業のようになっていきました。
外出する時は玄関で靴を履き、ドアに鍵を掛けるように、十字路でお地蔵さまを拝むのは、毎日のルーティンのひとつになったのです。

誰かに話したら、きっと引かれるだろうし、自分でも少なからず奇妙だと感じていたのですが、祈る気持ちはいつからか、少しづつ内容が変わっていきました。

「新しい生活が送れますように」という気持ちは同じなのですが、
「ありがとうございます」「こんな気持ちにさせてくれてありがとうございます」という気持ちが次第に強くなっていきました。

自分が生かされていること、お祈りをするような余裕を与えてもらっていること、希望を持たせてもらっていること…、とにかく色々なことに対して、感謝の気持ちが溢れ出てきたのです。

そして長い長い時間が流れたある日、気がつきました。
「あれ、願いがすべて叶っている」という事実に…。

長年希望していた離婚が成立し、住みたかった街に新しい家が決まり、引っ越すことになったのです。会社も退職して、フリーランスの道へと歩み始めていました。

その頃は、身の回りの雑務に追われて、お地蔵さまのことはすっかり忘れていたのですが、引っ越す1週間程前に、十字路とお地蔵さまのことをことを突然思い出しました。

新しい生活が送れるように、様々な努力を自分なりに行ってきたし、もちろん神頼みだけですべての望みが叶った訳ではないでしょう。けれど、「お地蔵さまが願いを叶えてくれた」と思わない訳には、どうしてもいきませんでした。
引っ越しの前の日の朝、ほうきと塵取りを持参でお地蔵さまを訪れ、きれいに掃除をして、静かなあたたかさを胸に、新しい街へ進むことができたのです。

そんなことがありました。

さて、望みが叶い、新しい街で暮らし始めた私は、実は昨日から新たな実験を始めました。お友達が勧めてくれた、これまた不思議な試み…。実現なるか? 何かというと、それについては、次回の記事に書きます。


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