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ヲタクでよかったこと。

 おはようございます、女上アサヒです。今日は三連休の最終日ですね。
皆さんはどこかに出かけたり、または本日、出かける予定はありますか?
 私は16日の土曜日に健康祈願と称して、地元の神社仏閣を巡ってきました。中には鍾乳洞もあり、下りの階段が苦手な私は落っこちないか怖かったです。
 鍾乳洞は中に入るにつれ、ひんやりとして気持ちよかったのですが、厳かな気持ちにもなれました。たまにはそんな時間を過ごしてもいいかもしれませんね!


<<病歴と介護②>>
 時系列をハッキリと覚えてないのですが、7年くらい前だったかもしれません。私が高血圧の治療を自己判断で止めてしまいましたが、体調には何ら変化はありませんでした。しきりに看護師さんから『頭痛はない?頭は重く感じない?』と聞かれましたが、その症状を感じることはありませんでした。
 当時、私は今よりもかなり(強調!)痩せていて、鏡を見ると青ざめているので、試しに自撮りをしてみました。すると、青ざめた自分が写っていてドン引きするほどでした。痩せていて、今でも残してあります。
 今現在、降圧剤を飲んでますが、頭が軽い気がします。当時、ずっと血圧が高くて重いのが当たり前すぎて、重さがわからなくなっていたのかもしれません。ちなみに、まだ痩せていたときは上は110くらいでしたが、太ってから140くらいになってしまいました。痩せなければいけないですね……。
 また当時に話に戻ります。母は年に一度、持病で入院することがあり、ほぼ検査入院のため心配することはありませんでした。ですが、お手洗いに行くと、自分の病室がわからなく、廊下を徘徊してしまうことが増えていきました。そのため、なるべくお見舞いに来て欲しいと病院側から頼まれることが多くなりました。
 入院費は兄が負担することになり、心配はなかったのですが、それ以外の入院に必要な水など、こまごまとしたものを買うのは私が担当になりました。母が入院している間、私は食費をどうにか削ることができました。いいダイエットになる、と言い聞かせて。それで、買い物したり、バス賃に充てていました。
 母が入院して一人で家にいて、落ち着きはありませんでしたが、やはり創作だけは続けました。書いては休み、の繰り返し。そして仕事に行く。この繰り返しの数週間でした。そして母が退院しました。母は病院では寝るか歩くリハビリをしていたのですが、家ではほぼ寝ていました。
 その後、月に1度、母の通院がありました。当時、勤めていた会社は休みが取りやすかったので、クレームの嵐でも、母の通院日を休みにするために退職しないでいました。それだけで勤務していたかもしれません。
 母が退院して初めていつもの通りバスで病院まで行こうと、バス停まで一緒に歩いていましたが、母の体力がかなり落ちていました。少し歩いては休みながらの繰り返しで、ようやくバス停まで到着しました。以前はゆっくりでも、バス停までは歩けたものです。そのときは夏だったのか、すごく暑い日だったと覚えています。 
 ようやくバス停に到着し、そこにはベンチもなくて、知らない方のお宅の階段に座らせてもらいました。そしてバスが到着すると、バスのステップが登れません。以前は問題なく、登れたものでした。私がせかしたせいか、母が突然『気持ち悪い』と言い出しました。これまでこんなことはめったにありません。
 そのとき、水筒を入れていた紙バッグを取り出すとすぐに嘔吐してしまいました。私は驚き、一人でパニックになっていました。私の近くに座っていたおばさま(おねぇさまだったかもしれません!)も目を丸くして驚いていたことを覚えています。私と母はすぐにバスを降りようとしましたが、パニックを起こしている私はバス賃がいくらだかわかりません。
 その時の運転手さんが、『お母さんの分は子供料金でいいよ』といってくれました。本当に有難かったです。私は自分と母の料金を支払い、すぐにバスを降りると、少ないお金から、タクシーで病院まで行くことにしました。
 母は気分が本当に悪そうでした。せかした私は申し訳ないことをしたと後悔でいっぱいでした。病院に到着すると、すぐに車いすに乗せました。その前までの通院では車いすを乗ることはありませんでしたが、この嘔吐をキッカケに病院に到着すると、すぐに車いすに乗るようにしました。母もその方が楽そうでした。
 予約の時間が来ると、いつも酸素量を計るのですが、指先が冷たくて、酸素の機械が反応しません。なので、いつもホットドリンクで温めてください、と受付の方に言われていました。しかし、今となると、母の死が指先から近づいていたのか? とも思ってしまいます。
 担当医は私よりも若い女医さんでした。いつも長く話を聞いてくれるので、長時間待つこともあり、反面、待っていてよかったということもありました。母より私の方とよく話をしていましたが、だんだんと、持病よりも、認知症の疑いがある、という話の方が長くなっていきました。
 薬も母の自己管理が出来なくなり、私の目の前で飲んでもらうことになり、一度に大量に飲むので、一粒でも落とさないか心配でした。また余談ですが錠剤が多くて主治医の指示があれば、薬剤師さんが小さなビニールにまとめて処方することもできて、これは便利だと思いました。しかし、母の場合、薬の量も多いため、薬局でかなり待たされましたが。
 その時以来、往復タクシーで通院するのも予算的に厳しいので兄に通院で車に乗せてもらうことを頼むことにして承諾してもらいました。兄は自営業のため時間の調節がきくのが救いでした。
 余談が多いのですが、母は病気をして以来、美容室にも行かなくなり、髪を結び、それが固まり伸びっ放しになりました。私が切ろうにも怖くて切れず、さらには頭頂部も薄くなっていました。兄がそれを気にして『髪を切ってウィッグを買う』というので、とあるかつら店に連れて行き、髪をカットし、部分ではなく、『全かつら』を買うことになりました。
 かなりの高額で、兄が全額負担しまた母も気に入って、毎日のように被り眠るときさえも、被っていいました。若々しくなっていたので、かつらは必要だなと痛感しました。
 ちなみに私はヘアカット代を浮かすため、YouTubeで自分でカットする方法の動画を見つけ、カットしていました。ロング限定でしたが……。
 母は持病と共に半年に一度、心臓の動きも検査していました。持病の症状で筋肉が固くなって、さらに心臓の血管まで固くなるので、どこまでその症状が進んでいるか確認するものでした。
 主治医ではなく、そのときばかりは心臓の専門医に診断してもらい、母と二人で説明を聞くのですが、あるとき、私だけが診察室に呼ばれました。
母を待合室に待たせ私だけが説明を聞くとになりました。
 この先生はズバズバとハッキリ言うのか、それとも母の症状がかなり進んでいたからか、わかりません。『いつ死んでもおかしくない状態』と、いきなり言われました。
 私は唖然としましたがとにかく、覚悟するようにとも言われました。それ以来です。私は創作をよるしながらでも、母はちゃんと息をして寝てるかと、創作の手を止めて、寝息を確認していました。その動きを感じたのか、母を起こすことも多々ありました。
 その『宣告』の直後、待合室で、私はやはりパニックになり、スマホのメモ機能で心臓の専門医に言われたことを入力していました。きょうだいに説明するときに読んでもらおうと思いました。処方箋が出されるのを待っていると、母の通院日を知っていた姉と甥が一緒に来たのです。私は一安心すると共に覚悟して、そのメモを読んでもらいました。
 二人も『やばい』の一言しか出てきません。その日の夜、母を寝かすと、きょうだいと甥たちと一緒に話し合いをすることになりました。一番落ち着いていたのは兄で『人間、死ぬときは死ぬんだから、先生の言う通り覚悟するしかない』という感じのことを言われました。慰めの言葉もないんかい!とも思いましたが私たちは現実を受け止めるしかありません。
 帰りの車は甥と姉と3人でしたが私のショックは続いており、泣いてしまいました。『本当にすぐに死んでしまったらどうしよう』と。姉の『大丈夫』一言で、どうにか落ち着けました。
 もう何年も前のことなので、時系列がズレていそうで申し訳ないのですが、そのときの母はデイサービスにも通っていました。週に2回だけ、朝の9時から15時までです。その時間は最初は私は何をしたらいいかわからず、開放感よりも、罪悪感が勝っていたような気がします。
 私が自由になりたいがために母をデイサービスに通わせるようで。しかし。だんだんと、母がいない時間になれていき、睡眠時間に充てたり創作をしたりして過ごしあっと言う間に母が帰ってきた、ということを覚えています。
 またこのデイサービスは毎回シャワーに入れてくれるのですが、母の髪を(当時はウィッグを外して通っていました)キレイに編み込みしてくれました。白髪の編み込みはキレイでした。私も負けじと、お迎え前に髪を編んであげました。
 私は若い頃、結婚して女の子に恵まれたら、三つ編みや編み込みをしてあげるのが夢でした。それは叶わなかったのですが、まさか、母にしてあげるとは思いませんでした。白髪の柔らかい感覚は今でも手に残っています。
 母は認知症の検査を受けていませんが主治医からは、もう認知症です、とハッキリと言われていました。ですが、家族としてはちゃんとした検査をしたかったのですが、主治医の言うことだからと、そのまま受け入れていました。
 しかし、検査はしなくてもと、認知症特有の症状がでてきました。『お金がない』と言うのです。姉が持っていった、兄が持っていった、と繰り返し言うのです。別居していて、たまにしか来ないのに、どうして持って理由がある? と私が宥めても、母は首をかしげるばかりです。またいつ何を食べたか、というのを忘れるのです。真夜中に創作をしてると、母が起きてきて『コンビニの弁当が食べたい』と言い、買いに行かされたこともありました。
 母には、食べ物を『別けて』一緒に食べる、という癖がありました。そのときのコンビニの弁当は結構大きかったのですが、夜中から私も一緒に食べることになりました。少しだけ口にして母は落ち着いたのか、すぐに寝てしまいました。そういうことがあるので、私は夜中に創作することを止められないでいました。
 ある夜のことです。確かゴールデンウィークで雨が降っていた頃だったと覚えています。とうとう、私はキレてしまいました。もしかして、時系列的にやはりズレがあるかもしれません。何度もすいません……。母は冷蔵庫も開けられなくなっていました。『カフェオレを取って欲しい』と私に頼んできました。
 私は冷蔵庫のカフェオレを取って、いつまでこんな生活が続くのかと思い、手に取ったカフェオレのパックを母に向かって投げつけました。
母は驚いて、きょとんとしていました。私は『もうこんな生活はイヤだ!』
と泣き叫びました。母は宥めるように『いつか一緒に旅行に行こう、それまで頑張ろう』と言うじゃありませんか。私は『それまでどうせ、死んでるよ』と言いたくても母には言えず……。『死んでやる!』と言いながら私は家から飛び出してしまいました。
 雨の中、荷物は何も持たず傘だけさし、死に場所を探しに歩き出したのです。観光客が楽しそうに歩いているのを見ても、何にも感じず、ただ北を目指して歩きました。入水しようか、それで行方不明になった方が誰にも迷惑はかけない。首を……となると、どなたが片付けると思えば、発見者に一生残るようなトラウマを与えるかもしれない、と思えばできませんでした。
 とにかく、北へ向かってただ死ぬ方法を考えながら歩いていました。雨は大雨で風も強く、傘をさしても、ずぶ濡れです。傘の意味はありませんがさして歩き続けました。観光客ともすれ違わなくなり、もう人ともすれ違わなくなり、職質かけらてもおかしくないような恰好になっていたかもしれません。
 歩いているうち少しずつ、疲れきました。でも死ぬ気持ちには変わりはありません。『人に迷惑をかけない死ぬ方法』はないか?と考えてました。街灯が少なくなると、寂しい雰囲気になりましたが、気は張っていました。北に向かうつもりが、適当に歩こうと思い、東側に曲がりました。
 雨は強いままです。全身びしょ濡れで、すれ違う人もいません。そこは明るい地域で、街灯が増えてきました。私は安心するよりも、北の方がよかった、と元に戻ろうと思いましたが適当に歩こうと決めたので、振り返りませんでした。今思えばそれがよかったかもしれません。
 歩き続けていると、とある垂れ幕が見えてきました。それは地元の美術館で開催されている『エヴァンゲリオン展』の宣伝でした。私はすぐに『行きたい!』って思ったのです。そのとき、すぐに気づいたのですが、『本当は死にたくないんだ』とエヴァに思わされたのです。
 なんだか、急に死のうという気持ちがバカらしくなり、家に帰ろうと思い、明るい街灯がある道を通って帰ることにしました。帰りは気が緩んでしまい、暗い道が怖かったです。雨はまだ降り続けていました。
 びしょ濡れになりながら、家に到着すると、ドアが開いていました。すると、母が待っていました。『帰って来ると思っていたよ、よかった』それだけ言うと四つん這いになってベッドに入り眠ってしまいました。
 私は母に悪いことをしたと猛省するだけでした。それに母の心臓にショックを与えなくてよかった、と思いました。それ以来、母のわがままをお金が続く限り叶えてました。ほぼ食事に関することでしたが。
 『エヴァンゲリオン展』ですが、もちろん行きました。私と母を救ってくれたエヴァです。しみじみと楽しみました。写メを何枚も撮り、未だにそのその頃の写真を見ると母を思い出します。
 母の余命を告げられた命とまだ若い命。私は自分の命を投げ出すところでした。そういうことをしてはいけない。
 エヴァは楽しめても、その時からまた別の病気が潜んでいたかもしれません。

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