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スーフィズム(=イスラム神秘主義)

みなさまこんばんは、久しぶりの投稿で御座います。昨日、久しぶりに休暇をいただき、友人と外出してきました。ランチにスープカレーを食べに行き、電車で地域の平成感漂うショッピングセンターに行き、街まで帰る時の電車内で、最近ブログの投稿がないとコメントいただき、ブログ再開しました。ありがとう。

スープカレー

先日、ニューヨークから無事帰国を果たし、東京で一泊し遊んできました。東京は代々木上原にある東京ジャーミイというトルコが建てたモスクに行ってきました。ちょうど入った時はお祈りの時間と重なり、礼拝所には入れず、そしてトルコの物が売っている店にも入れず、時間潰しに無料で置いてあるトルコチャイとデーツをいただきました。15分程度のお祈りが終わり、礼拝所が開き、そこへいってみました。

一階のエントランス
礼拝所
個人
ジャーミイ入り口

見事なイスラム建築✨、なんて美しいのでしょう。よく見ると幾何学模様や植物柄だけでなく、アラビア文字も施してある。

今回少し述べたいことはスーフィズムというイスラム神秘主義についてです。スーフィズムとは、-私の言葉で表すと-神アッラーと繋がるために修行をして、直接神とつながろうとすることです。アッラーの声を聞いたモハメッド(=ムハンマド)はアラビア語を司る人だったため神の言葉を書き留めた書物、コーランは当然アラビア語で記されていた。イスラム教徒、ムスリムとムスリマはコーランを読む必要があるのだが、アラビア語を解さないトルコやマレーシア、インドネシア、インドにいた人々はコーランを読むことができない。彼らが礼拝する時の言葉だけをアラビア語で暗記しているという。そこで彼らに浸透していったのがスーフィズムである。コーランを読めなくても、修行をしたら神と繋がれるというものだ。トルコには現在でもメフレヴィー教団がおり、スーフィズムに則って、クルクル回り続ける神と繋がることをしている。現在は、観光観賞用のみトルコでゆるされているそうです。非アラビア語圏の人々にもイスラム教を広げられた要因がスーフィズムである。
インド文化を学んでいる身としては、スーフィズムとヒンヅー教がなんだか似ていると思ったが、どうやら、イスラム教とヒンドゥー教は近しいものがあるという。インドも時代時代様々な王朝ができてきた。中には、イスラム教を信じる王朝もある。世界遺産タージマハルも、歴然としたイスラム建築である。イスラム教とヒンヅー教を合わせた宗教もあるし、相性が良い点がある。神アッラーと合一するスーフィー(イスラム神秘主義者)とバクティ(ヒンヅー教の神々の中から自分の神を決め帰依する)をするヒンヅー教徒が共通している。修行という点もインドのヨガと似ているのではないだろうか。ヒンヅー教は多神教である。トリムルティー(ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァ)その他の神々などかず多くいる。しかし、イスラム教は一神である。でもなぜ一神教と多神教に共通性が見られるのだろうか。これにはスーフィズムが非常に関わってくるのだ。スーフィズムは神との合一を目指すもの。次第にスーフィーらは自分が神だという気持ちに陥る。自分が神だと思うと、自分がいろんな物を創造する主体となり得る。したがって一神教から多神教に転換が生じる。これが個人的にヒンヅー教とスーフィズムが共通し、インドでイスラーム融合にたどりついた所以であるように思う。

イスラム教は一神教がゆえ、偶像崇拝も禁止である。神がたくさん生まれないためである。そうなると、神はもちろん、人間や動物の絵も禁止される。なぜなら、神が人間や動物を創造したわけで、私たちが絵を描くことで、私たちが絵の中の物質を創造したという解釈になってしまうからである。何でイスラムにおける芸術は、植物模様か幾何学模様かアラビア語の変体を柄に取り入れているのが特徴である。ああ、東京ジャーミイでまじかにしたデザインと一致するものがある。感動を覚えた。

そうなると、日本にいるイスラム教徒を俯瞰して見るとなかなか日本文化と異なるものがあるように思えてきた。偶像崇拝禁止を謳っているイスラム教を信ずる教徒は日本のフィギュアや絵や銅像、漫画デザインを見てどう思うのだろう。イスラムについて少し知るだけでも、日本の文化がわかってくる。いとをかし。


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