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【Essay】タイ語の美しいもの

大学のタイ語の授業で、タイ語の金言(วรรคทอง)について学ぶ機会があった。タイ語の金言は、多くの場合は韻文による古典文学から引用されている。母音による押韻に加え、細かい声調の決まりがある、厳格な韻文だ。朗読の際に考慮しなければならない音節の区切り方も存在する。押韻、声調、音節の区切りによって織り成される独特なリズムが、タイ人の耳には美しいものとされる。

これを読んでいる人に、タイ語ができる人が何人いるかはわからない。今回、授業で取り上げられていた「プラ・アパイマニー」という古典の金言をここに載せよう。(本当は訳そうと思ったが、自分のタイ語が追いつかなかった…。朗読が下手なのはご愛嬌)

แล้วสอนว่าอย่าไว้ใจมนุษย์ มันแสนสุดลึกล้ำเหลือกำหนด
ถึงเถาวัลย์พันเกี่ยวที่เลี้ยวลด ก็ไม่คดเหมือนหนึ่งในน้ำใจคน
มนุษย์นี้ที่รักอยู่สองสถาน บิดามารดารักมักเป็นผล
ที่พึ่งหนึ่งพึ่งได้แต่กายตน เกิดเป็นคนคิดเห็นจึงเจรจา
แม้นใครรักรักมั่งชังชังตอบ ให้รอบคอบคิดอ่านนะหลานหนา
รู้สิ่งไรไม่สู้รู้วิชา รู้รักษาตัวรอดเป็นยอดดี

นิทานคำกลอนเรื่องพระอภัยมณี

クローンというタイ語の詩や、その朗読リズムを学んだのは、これが最初ではない。2年前にもタイの古典文学や韻文が授業で取り扱われたことがあった。「タイ人にとってはこのリズムが美しいのだ」と言われても、当時はあまりピンと来なかったことをよく覚えている。今であれば少しは美しく聞こえるようになっただろうか。そう思ってタイの古典を開いてみても、今度は語彙に打ち負かされてしまう。言ってしまえば、タイ語専攻5年目の人間でも、タイに関する教養は深くない、ということだろう。

ただ、近現代文学であれば、その言葉遊びの面白さを味わうことができる。授業でも取り上げられていた、シーブーラパーの『絵の裏(ข้างหลังภาพ)』では、最後に王妃ギーラティはこう述べる。

ฉันตายโดยปราศจากคนที่รักฉัน
แต่ฉันก็อิ่มใจว่า ฉันมีคนที่ฉันรัก

ข้างหลังภาพ (1937) โดยศรีบูรพา

私は誰にも愛されずに死んでいく
しかし私は幸せだ
私自身は愛する人がいるのだから

拙訳

こちらも伸びのない「ก็~」はご愛嬌。

ちなみに、僕は『絵の裏』が大好きだ。タイの上流社会の閉ざされた世界の中で生まれ育ち、恋も知らないまま政治結婚をしたギーラティ。かなり歳の開いた夫とともに、新婚旅行として20世紀初頭の日本に来る。そこで世話役を引き受けたのは、まだ若いタイ人留学生ノポーン。知性に満ちた会話を重ねるうちに、二人は恋に落ちるが…。この小説には、(浅学の自分から見て)タイの美が凝縮されている。既に1980年代に日本語に翻訳されているが、現在は絶版だ。著作権が切れる頃、自分の手で訳したい。

「何を美と感じるか」というのは、哲学の永遠のテーマだろう。伝統的な哲学に詳しくない自分は、「美」の歴史を語ることなどできない。この世に絶対的な美が存在するのだろうか。存在するとしたら、どう定義できるのか。その美は本当に普遍的なのか。わからない。ただ、自分の耳に心地よいリズムは何かと聞かれれば、答えることができる–五・七・五だ。

僕の祖父は、昔から俳句を詠んでいた。物心ついたときから、祖父を通して、自分は俳句に囲まれた生活を送っていた。祖父の机の上には、表紙の色が薄くなった歳時記と、ミミズののたくったような文字(タイ語?!)で埋められた俳句手帳が並んでいる。祖父の家に遊びに行った時は、句集や自身のメモを広げながら、この句はいいとか悪いとかと、批評を始めるのだ。そんな祖父の影響を受けて、小学生だった頃の自分も俳句を作ってみた。自由帳やスケッチブックに、ひん曲がった五・七・五がたくさん現れるのだ。それを祖父に見せては、酷評を食らっていた。

どのような句が良句なのか、今もわからない。ただ、幼い頃から脳裏に刻まれた五・七・五のリズムは、自分の審美観の一つを構成している。その言葉の世界で、美しいとされるものを、それと触れ合い続けることで、それを知っていく。感性に深く刻み込んでいく。美しいものを美しく感じるとは、そういうものなのかもしれない。

タイ人は、我々が小学生の頃から古典を学ぶように、タイの古典を学ぶ。学校教育の中で何年もかけて培われてきた、タイ語の美の枠組み。それはタイ語の美しいものに触れ続けることで、確かに刻み込まれていくのだ。そしてそれは、5年やそこらの期間のタイ語学習では身につけることは難しい。確かに、タイ語でタイの大学の授業を受けることもできれば、タイの友人と飲みながら屁理屈を語り合うこともできる。しかし、それは本当にタイ語ができるといえるのだろうか?

自分は今年、タイ語専攻を卒業する。卒業して初めて、本格的なタイ語学修が始まるのかもしれない。タイ語の深淵を、いつまでも探っていたい。

◎本の紹介

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