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メタバースの一等地に暮らそう!

 「メタバースの一等地」と聞いて何が思い浮かぶだろうか?取引の結果価格が高騰した、やりとりが電磁的に記録され、それ以前の情報を書き換えられなくなった台帳データに紐づいた3Dワールドのことだろうか?VRメタバースが勃興している時代、後から紐づけた台帳データの価格が高騰していれば、それは一等地なのだろうか?

 「一等地」と言われる場所を想像してほしい。銀座、渋谷、新宿、白金台、松濤、青山…。人間がたくさんいるか、人間が生活している場所が一等地と言われているような気がする。

 人類は地球という球体の有限な表面に暮らしていて、その領域をどこまで占有できるか常に争っている。プーチンも多大な犠牲を払いながらウクライナに攻め込み、世界中から取引を止められている。経済制裁に困るのは、人類が空間に縛られていて、他に存在するものが手に入らないからだ。

 「人工的な現実感(Virtual Reality)」により、認識できる空間「メタバース」の大きな利点は「空間」に縛られないことにある。「空間」の唯一性を担保したところで、それを表現する機材の計算能力があればいくらでも空間を生み出すことが可能なのだ。

 現代流行している「VRChat」「NeosVR」のようなVRメタバースの空間の概念には「ワールド」と「インスタンス」がある。「ワールド」とは「渋谷」のような3D空間そのもの。「インスタンス」とは、異次元や並行世界のような空間のパターンだ。

 インスタンスはユーザーが入れる人間を「友達」「招待した人」「全員」のように指定することができる。架空のメタバースプラットホームに、ワールド「渋谷」があった場合、「私の友達の渋谷」「みんなの渋谷」「一緒にいたい人だけの渋谷」が同時に存在している。ワールドとインスタンスは、公民館とコミュニティの関係に近い。

 よく「VRChatに来たけど、誰にも出会えなかった」「友達との関係性が悪くなり、VRChatにいられなくなった」という話を聞く。これは、コミュニティに入れなかったか、コミュニティが合わなかったからだ。渋谷に来たけれど、道行く若者の輪に入れなかったという状態や、一人で迷っていたら不良のグループに付いていってしまったような状態に近い。

 「どんなところに人は集まるのか?」。たぶん、ここでいう「人」とは、ある程度一緒にいて悪い気分がしない人間のことだろう。メタバースと言えどインターネット。特にVRメタバースの場合、その場にいるような実質的な現実感があるので、見たい情報しか見なくてよく、コミュニティが蛸壺化するインターネットの性質が、現実感がもたらす居心地の良さと結びついて増幅してしまい、どんどんと自分の見ている世界が狭く深くなっていく。

 「職場や家族の人間関係に疲れた」「新しい世界に逃避したい」と思う原因は、自分が観測できる世界が狭いから、それを全てだと思い込むことかもしれない。メタバースも同じだ。

 一方、同時に別の「渋谷」が開いているインスタンスでは、個性豊かな人たちが楽しくお酒を飲んでいるイベントが開かれているかもしれない。しかし、そのイベントの主催者の友達しか入れないインスタンスの場合、その人と仲良くなければ入ることができない。まずは出会わなければ意味がない。

 自分に合わないコミュニティや、そもそもコミュニティにたどり着けない状況を解消するためには、視野の広さが大切になるかもしれない。公開されているイベントにはフレンドリーなユーザーが多いので、ふらっと訪れてみるのも手だろう。それか自分の「好き」「楽しい」に集中してみる。上手いかどうかは関係ない。「好き」「楽しい」に集中していると、「好き」「楽しい」を原動力にしている人間が集まる。楽しい。

 人間の数だけ空間を生み出せるメタバース。単一に「どこ」と言えない世界では、人が集まるところに人がいる。一晩中会って話して遊んでいれば、人間の関係性の自然と深まっていく。メタバースには「好き」を半分仕事にしてしまった人もけっこういる。そんな仕事も人との関係性から生まれてくる。メタバースの一等地とは、コミュニティと言えるかもしれない。

 もう一つ。「空間」には「ワールド」という要素もある。ワールドとコミュニティが結びついている場所もあれば、ワールドそのものが芸術性やテーマ性を持っているものもある。「NeosVR」のようなプラットホームでは、その場で自分で作ることも可能だ。

 大半のワールドはプラットホームが提供したものではない。ユーザーが自分の意志で手を動かして作ったものだ。ワールドクリエイターは「こんな世界が作りたい」と思いながらワールドを作っている。ゲームワールドや景色のいいワールドなど人工的な現実感における「居心地の良さ」「楽しさ」は、ワールドという箱と、コミュニティという関係性の相乗効果だ。ワールドという意味の一等地が欲しいのならば、それを作るクリエイターを応援するといいだろう。

 非代替性があるのは、記録が書かれた台帳ではない。人間と、人間の内面から生み出した作品だ。価値があるのも、人間が認めるからだ。人間を忘れて価値を生み出すことはできない。

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