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戦後の都市の大型再開発と軍需工場跡地利用の例

ニューヨークやシカゴなど、都市が発展すると、徐々にその中心部、ダウンタウンのスラム化が起きます。しかし、近年、世界各地で大都市の再開発が盛んに行われています。老朽化した建物や無秩序な街並みを、権利関係を整理して、大規模な範囲で再構築する動きです。

都心部の再開発に関連し、戦後の東京や大阪で、軍需工場跡地が変化していった様子について調べてみました。

軍需工場跡地は、球場などの大型施設、公園、図書館、文化センターなどの公共施設、都営住宅、ビジネスパークなどに生まれ変わっています。これらの工場跡地は、戦後の市街地の再開発で、大規模開発を可能にした舞台でもあったようです。

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中島飛行機武蔵製作所

『現在、グリーンパークと呼ばれている一帯に、ゼロ戦をはじめ、陸海軍の航空機用エンジンを生産した、国内屈指の航空機メーカー「中島飛行機株式会社」の武蔵製作所がありました。

軍から工場拡大の要請を受けた中島飛行機は、昭和13年に陸軍用エンジン工場を建設、昭和16年には、隣接して海軍用の工場が完成。昭和19年に、東京で初めてB29による空襲を受け、昭和20年8月8日まで9回の空爆を受け、製作所は壊滅状態となりました。

戦後、中島飛行機武蔵製作所は閉鎖され、跡地は、電気通信省(現NTT武蔵野研究開発センタ)、東京スタジアムグリーンパーク球場(閉鎖後、公団住宅)に姿を変えていきました。米軍宿舎は、昭和48年に返還が実現し、その後、都立武蔵野中央公園となりました。』

『三鷹には戦時中、中島飛行機三鷹研究所や日本無線などの軍需工場があり、「飛行機工場の町」と呼ばれる「一大軍需工業地帯」に属していました。市内には現在も、防衛の基地であった調布飛行場の周りに、戦闘機を格納する掩体壕や高射砲陣地跡などの「戦争遺跡」が残り、戦争の記憶を今に伝えています。』

東京砲兵工廠(とうきょうほうへいこうしょう)

『東京砲兵工廠(とうきょうほうへいこうしょう)は、日本陸軍の工廠である。1871年(明治4年)から、小銃などの兵器やさまざまな金属製品を製造した。1935年(昭和10年)小倉工廠へ移転を完了し、約66年間の歴史の幕を閉じた。

工廠跡地は「株式会社後楽園スタヂアム」に売却され、翌1937年(昭和12年)、職業野球専用の新球場、「後楽園球場」や遊園地、競輪場など一大レジャー施設としてオープンした。

小石川後楽園は都立公園として整備され、世界的にも名園として知られている。園内には現在も砲兵工廠の遺構がいくつか保存され、また工廠敷地の形状をかたどった記念碑がある。 』

赤羽軍需工場跡地

『現在の地図に昔の軍用地(の一部)の場所を描くと、

赤羽台団地→被服本廠
桐ケ丘団地→陸軍火薬庫
星美学園→第1師団工兵大隊
社会保険病院→近衛師団工兵大隊

が位置していました。

戦後アメリカ軍によって接収されたのちに、徐々に返還され、これらの広い軍用地は、団地や学校や公園などの平和的な施設へと変わっていった。』

『昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されている。』

川越製造所

『跡地の西側は上野台団地(現在は建替えられてコンフォール上野台)、東側はイオンタウンふじみ野、新日本無線株式会社川越製作所となっている。境界壁は工場の塀として現存。ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館には工場の模型を設置している。』

大阪砲兵工廠が大阪ビジネスパークOBPに

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E7%A0%B2%E5%85%B5%E5%B7%A5%E5%BB%A0

『明治に入り武家屋敷が破却され、1869年に再び鴫野村の一部となった弁天島は兵部省(大坂鎮台、後の第4師団)の所管となった。1879年に大坂城京橋口から青屋口にかけて、大日本帝国陸軍の大阪砲兵工廠が建てられ、明治末年までに玉造口や弁天島にも拡張された。1939年には城東線(大阪環状線)東側の城東練兵場跡地にまで拡張され、1940年に大阪陸軍造兵廠に改称。東洋一の規模を誇ったが、1945年8月14日のアメリカ軍による爆撃(第8回大阪大空襲)で造兵廠は80%以上の施設が破壊され、敗戦後は連合軍総司令部に接収された。
1952年、講和条約発効により接収が解除されたが、不発弾が多く危険という理由で1960年代中頃まで更地のままだった。その後更地は大阪市に返還され、再開発計画により高層ビルを建設し、新たな街づくりを進めることを計画。そして、大阪ビジネスパークは誕生した。』


https://www.khi.co.jp/corporate/history/

『海軍が潜水艇の採用について検討を始めたのは1901(明治34)年頃のことでしたが、日露戦争の勃発が早期の決断を迫る結果となり、潜水艇隊の創設が決定しました。1904(明治37)年にはアメリカからホーランド型潜水艇5隻(潜水艇「第1」~「第5」)が輸入されました。同時に潜水艇の国産化も進められることとなり、1904(明治37)年、当社に最初の2隻の発注がありました。・・・アメリカから技術者を招き、起工後も研究を重ねるなど多くの困難を克服して完成させ、国産初の潜水艇「第6」「第7」として1906(明治39)年、海軍に引き渡しました。

日露戦争の勝敗の鍵となった日本海戦後、政府は海軍力強化のため全て外国で建造していた大型主力艦の国産化を計画しました。これにより、それまで駆逐艦や水雷艇などの発注にとどめていた民間造船所にも大型艦を発注するようになりました。当社が製造した通報艦「淀」は民間造船所で初めて建造された100排水トン超の軍艦であり海軍当局から高い評価を受けました。これが民間造船業での本格的建艦の始まりです。』



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