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古代オリエント文明 part1      (古代メソポタミア文明) 

こんにちは!Landです。
今回はオリエントの地域にまつわる、
四大文明の一つ、古代メソポタミア文明についての記事を発信していきます!


・オリエントとは

そもそもオリエントとはどこの地域を指すのか。
オリエントはラテン語で「太陽の昇る方向」という意味を指し、
古代ローマの人々からして東側、つまり西アジアやエジプトの総称であると
されています。
古代メソポタミア文明はそんなオリエントに位置する、
ティグリス川・ユーフラテス川の間に繁栄した文明でした。

メソポタミアの名前の語源は、ギリシア語の
『メソス(真ん中)』と『ポタモス(川)』が合わさったもので、
その名前からも、メソポタミア文明の位置的特徴を伺うことができます。


・古代メソポタミア通史

シュメール人

メソポタミアの歴史はシュメール人の都市国家から始まります。
シュメール人はウル・ウルク・ラガシュと呼ばれる都市国家を創ります。
中でも、最大規模を誇るウルではジックラト(聖塔)がそびえており、
非常に高度な文明であったと言えます。

高度な文明であったからこそ様々な文化が創り出されました。
六十進法1週間7日制太陰暦占星術
そして文明を語る上で大きな鍵となる文字に関しても、
楔形文字という象形文字が粘土板に刻まれていたという文化があったことが知られています。
  ※太陰暦や占星術が発達したメソポタミアの地理的要因に関しては、
  古代エジプト文明の話とともにしていきたいと思います。


アッカド人

しかし、そんなシュメール人も都市国家間の争いにより、
新たに勢力を伸ばしてきたセム系語族のアッカド人
メソポタミアの地を征服されてしまいます。

アッカド王国のサルゴン1世は、シュメール人の時のように
都市国家がそれぞれバラバラに点在するのではなく、
統一王朝を形成し、まとまりを創りメソポタミアを支配しました。


アムル人のバビロン第一王朝(古バビロニア王国)

そしてアッカド人がメソポタミアを支配したと思えば、
次はセム系遊牧民のアムル人がメソポタミアを支配するようになります。

アムル人はメソポタミアに首都バビロンを建設し、
バビロン第一王朝(古バビロニア王国)を建国しました。

アムル人の王国で有名なのはなんといっても
第6代王ハンムラビ王が編纂したハンムラビ法典です。
ハンムラビ法典はかの有名な言葉
目には目を、歯には歯を
のやられたらやり返す同害復讐法の原則を元にした法典です。
  ※言葉的に平等そうに見えたり怖そうに感じる法典ですが、
実は身分法であったや、やったことは自分に返ってくるのだから悪いことは          してはいけない、と思わせる抑止力を持っていた法典であるとの話もあり     
ます。


3つの民族が話に出てきた古代メソポタミアですが、
とうとう終わりを迎えることとなります。
その引き金となったのがインド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人です。

ヒッタイト人がメソポタミアに侵入し、それにより古バビロニア王国は
衰退してしまいます。
さらに、衰退したところへカッシート人ミタンニ人の侵入を許すことにより、古バビロニア王国は滅亡し、メソポタミアの地を支配されてしまいます。


・終わりに

今回はオリエントの世界、特に世界の四大文明である古代メソポタミアについての記事を書きました。
次回の記事は同じくオリエントの四大文明であるエジプトについての記事を書いていこうと思っていますので、そちらの方も観ていただければ幸いです。
ありがとうございました!







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